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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 法華宗系 日本山妙法寺大僧伽

八 日本山妙法寺大僧伽

  立 教   大正6年2月
  創始者   藤井日達(山主)
  現後継者  上野行量(首座)
  信仰の対象 一塔両尊四菩薩
  教 典   法華経、日蓮遺文、山主・藤井日達の著書
  本部所在地 東京都渋谷区神泉町8―7
  信徒数   1,564
  名称の変遷 妙法宗(昭和22年) 日本山妙法寺大僧伽(昭和27年)

【沿革】
 日本山妙法寺大僧伽は、藤井日達によって開創された出家者中心の教団であり、僧侶が平和運動や住民運動などで、黄色い僧衣をまとい、うちわ太鼓を叩き、題目を唱えて行脚することで知られている。
 藤井日達は、明治18(1885)年8月、熊本県阿蘇郡坂梨村(現在の一の宮町)に農家の2男として生まれ、幼名を芳雄といった。地元の高等小学校を卒業した後、大分県の臼杵農業学校に進学したが、このころから宗教に関心をよせ、次第に「日蓮聖人」に傾倒していった。農業学校を卒業した直後、同36年4月、17歳で臼杵市の日蓮宗法音寺で出家し、僧名を行勝と称した。
 翌年、新設された日蓮宗大学(後の立正大学)に第一期生として入学、明治40年に卒業した。その後、京都・頂妙寺(日蓮宗)に寄留し、京都、奈良などで各宗派を学んだ。また、明治42年には志願して兵役を1年間体験、少尉に任官して除隊した。
 大正5年、藤井は奈良県山辺郡にある桃尾(もものお)の滝で、滝に打たれながら7日間の断食をした。このとき『法華経従地涌出品』に説かれる父少の釈尊と子老の上行菩薩に出会う体験したという。これにより藤井は、世界の人々を妙法に帰せしめる「一天四海皆帰妙法」を誓願、その方法として、うちわ太鼓を叩いて題目を唱える「撃鼓宣令(ぎゃっくせんりょう)」を決意し、近くの春日神社において、はじめてこれを行った。これ以後、徐々に日蓮宗と距離をおき、独自の行動をとりはじめた。
 大正6年2月、藤井が33歳のとき、皇居二重橋の前で一週間、国主諫暁、大法奏進を念じて、撃鼓宣令を実行した。これが、日本山妙法寺大僧伽の事実上の立教である。この後、藤井は朝鮮や満州(中国東北部)に渡り、遼陽をはじめ大連、奉天、天津などに日本山妙法寺を建立した。

 同12年9月に起きた関東大震災の報を聞き、帰国した藤井は活発な布教をはじめ、翌年4月には静岡県田子の浦(現在の富士市)に国内初の日本山妙法寺を建立し、その後、那須、熱海などにも同名の道場を建てた。
 昭和4年11月、神戸において、日蓮正宗の神戸独一本門講の講頭増田耕一氏と藤井の間で撃鼓宣令などについて法論があり、藤井は論破された。当時の『大日蓮』誌には、法論が不利になると藤井は急に勤行をはじめ、法論を中止してしまったと記されている。
 同5年5月、藤井は、インド開教を思い立って日本を出発、中国、シンガポールを経て、翌年1月、カルカッタに上陸した。これを教団では「西天開教」といっている。インド上陸後、各地の仏蹟参拝を行い、同8年2月、セイロン(現在のスリランカ)を訪ねた折り、エヌ・ピヤラタナ師から仏舎利が贈られたという。同年10月に、インド独立運動の指導者ガンジーと会い、藤井はその非暴力・不服従の思想に影響をうけたとしている。同10年2月、カルカッタに日本山妙法寺を建立し、さらに弟子たちの働きもあって、教線はタイ、ビルマ(現在のミャンマー)など、東南アジアにも拡大していった。同12年7月、藤井は帰国し、以後、国内で活動した。
 なお、藤井がインドに滞在していた昭和7年1月、日本山の僧侶が殺害されたことが直接の原因となって上海事変が勃発している。また、大虐殺が行われたとされる同12年12月の南京攻略では、日本山の僧侶が軍隊より先に、玄題旗とよばれる題目を書いた旗をもって入城したという。
 同20年8月の太平洋戦争終結で、教団はそれまでの国粋主義的な方針を180度転換し、平和主義を掲げるようになった。
 同22年、藤井は「妙法宗」を起こし、同27年には、「日本山妙法寺大僧伽」と改称した。「さんが」とは「そうぎゃ」ともいい、僧侶集団を指すインドの古語である。
 昭和29年4月、教団は熊本市花岡山に仏舎利塔を建立し、以後、各地で仏舎利塔を建設した。これは現在でも、藤井の弟子たちによって引き継がれている。
 同じころ、ビキニ環礁で第五福竜丸が被爆したことをきっかけに、全国的に原水爆禁止運動が起こったが、このなかで、日本山の僧侶は黄色の僧衣をつけ、うちわ太鼓を叩きながら行脚した。これより以後、政党色を排除し、不殺生、非武装平和、原水爆禁止などを主張し、米軍の立川基地拡張に反対する砂川闘争をはじめ、ベトナム戦争反対運動、成田三里塚の空港反対運動など、さまざまな社会的運動に参加している。
 藤井日達は、昭和60年1月9日、熱海道場において99歳で死去した。藤井の死後、上野行量が首座(中心者)となって現在に至っている。

【教義の概要】
 教団では本尊として一塔両尊四菩薩を祀っている。日蓮大聖人の曼荼羅を模して藤井日達が書いた曼荼羅を安置し、その前方中央に日蓮聖人像、左側には釈迦像、右側には多宝像がそれぞれ安置されている。さらに曼荼羅の真横、左右には上行、無辺行等の四菩薩像が配置されている。
 所依の教典は、法華経、日蓮遺文、山主藤井日達の著書『一閻浮提』『仏教と世界平和』『わが西天開教』等である。
 教団では、久遠実成の釈尊を仏とし、日蓮聖人を高祖、藤井日達を開山また山主と呼んでいる。
 教団は、うちわ太鼓を叩いて題目を唱える「撃鼓宣令」と、すべての衆生を敬うという「但行礼拝」の二つの行をもって、南無妙法蓮華経を弘通すること、また、広く仏舎利を供養することを中心に活動している。
 日蓮宗から派生した教団であるが、道場に住み、戒律を重視する出家者集団である。これは、日本の宗教団体としては、大変珍しい形態である。
 また、出家者の教団であるにも関わらず、あえて教義を説かず、撃鼓宣令、断食、祈念、布施、平和運動などの実践行を重視している。行事としては、毎月の断食、12月の接心断食、寒修行等が行われてる。また毎年、東京から広島、長崎、沖縄への平和行進を行い、海外においても平和巡礼として各国を巡り歩いている。
 北伝仏教が中心の我が国において、南伝仏教の黄色の法衣を使用しているが、教義的な理由はないという。

【破折の要点】
◆中途半端な平和運動
 藤井は、昭和8年10月に、非暴力、非服従の無抵抗主義を貫いてインド独立を指導したガンジーに15分間だけ会っている。教団では、藤井がこのとき深い感銘をうけ、その影響で平和運動に挺身したようにいっている。しかし、当時、日本がすすめていたアジアへの拡大政策について、藤井はこれを積極的に支持しており、ガンジーが日本の帝国主義侵略と非難していたことと背反する。また、藤井はガンジーとの会見後も、昭和20年8月の終戦まで、日本の国策に賛同しており、藤井の平和運動が、ガンジーの影響であるというのは、事実と相違している。
 また教団においては、藤井の死後も盛んに平和運動を行っている。しかし、仏教の視点からみると、戦争や紛争は、人間の生命にひそむ貪瞋癡の三毒から起こるものであり、表面的な平和運動や精神修養などで根本的な解決はない。真の平和は、それぞれが正しい信仰によって生命を浄化し、その輪を広げて、社会、国家を安穏にすることにある。仏教者であるならば、地道ではあるが、正しい仏教の教義と修行をもって平和の構築を考えるべきである。

◆仏舎利の安置、礼拝は法華経の本意に背く
 日本山では、釈尊の遺骨と称する仏舎利を安置する塔を建立し、これを礼拝の対象としている。しかし日本山が所依の教典とする法華経には「舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。此の中には、已に如来の全身有す」(法師品)とあり、「自分(釈尊)の遺骨である生身の舎利を安置してはいけない。それは、法華経のなかに自分の教えである法身の舎利が具わっているからである」と述べている。このことからも仏舎利を安置することはもちろん、これを礼拝することは、自らが所依とする法華経の制誡に背く邪義である。
 また日本山では、仏舎利塔を建立することによって世界平和が実現すると主張するが、釈尊自らが禁じた生身の舎利を安置することと世界平和との因果関係はまったく不明であり、その主張はずさん極まりないものである。しかも日本各地に仏舎利塔なるものを建ててあたかも釈尊の遺骨を安置しているように宣伝しているが、釈尊の遺骨がそんなに大量に存在するわけもなく、実態はきわめていかがわしいものである。

◆『立正安国論』の精神に違背
 日蓮大聖人は『立正安国論』に、
 「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」(新編247)
と説かれ、国土を安穏ならしめるには、まず国中の謗法を禁断するよう御教示されているにも関わらず、謗法の破折もせず、誤った謗法の諸宗とも力を合わせ平和運動を行うのは、大聖人の立正安国の精神に違背するものである。同じく『立正安国論』には、
 「善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず」(新編234)
と説かれ、謗法の国には諸天善神が住まないことが述べられている。しかし、藤井は春日神社をはじめとするさまざまなで神社で撃鼓宣令などを行い、また礼拝をしている。これも日蓮大聖人の教えに背く行為である。


 
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