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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 仏教系 辯天宗

六 辯天宗

  創 立    昭和27年1月10日
  創始者    大森智辯(宗祖)
  現後継者   大森慈祥(第2世管長・智辯の長男)
  信仰の対象  大辯才天女尊
  教 典   『大辯才天礼拝経』、大森智辯著『水の章』、大森智祥著『宗祖伝』、
        『宗祖尊女おことば集成』、大森慈祥著『信者訓戒理解』等
  本部所在地 総本山 宇賀山妙音院如意寺(大和本部)奈良県五條市野原西4―6―25
        飛龍山冥應寺(大阪本部)大阪府茨木市西穂積町7―41
  信者数   292,350
  名称の変遷 信徒組織・辯天講(昭和23年) 辯天宗(昭和27年)

【沿革】
 辯天宗は、真言宗の僧侶を夫に持つ大森智辯が、辯才天から天啓を受けたとして創設した教団である。奈良や和歌山にある智辯学園はこの教団が経営している。
大森智辯は、本名を吉井清子といい、明治42(1909)年4月1日、奈良県吉野村(現吉野町)において、村会議員を務める吉井重吉の長女として生まれた。
清子が12歳のとき、父親が経営に関わっていた製糸工場が倒産したため、四日市の製糸工場へ年季奉公に出た。負債が整理された後も、清子は和歌山の粉河にある工場や京都に奉公に出ている。
 昭和4(1929)年7月、21歳になった清子は、叔母吉井ケイの養子で真言宗僧侶の大森智祥と結婚した。まもなく夫智祥は養父の死去に伴い、奈良県五條市十輪寺の後任住職になった。
 清子は、2人目の子供を出産した頃から体に変調を来たすようになった。ある日、生駒の妙見信仰の祈祷師から「十輪寺にある辯才天を信仰すれば治る」と告げられ、境内の古い堂宇にあった「辯天像」を見つけて修理し、『般若心経』を唱えると痛みが取れたという。
 昭和9年4月17日、清子は庭で草花の手入れをしていたとき胸苦しさに襲われ気を失った。夢うつつの中で、水中から現れた辯才天から「そなたに辯才天の徳を授けん。辯才天は水の心なり。水の心を心とし、一切衆生を救うべし」「その宝を授けよう」とのお告げがあり、光り輝く粉(金剛砂)を手中に受けたという。このとき辯才天から授かったという教えが、同教団の教義の基本となる「五行のお諭し」である。
 この日を境に、神示が下るようになったという清子は、人々の商売や病気、災難等の悩みに対し、予言を与え、解決に導くようになり、自身も辯才天の化身であるとの自覚を深めていった。
 清子は、昭和14年1月6日から1週間、大阪の古義真言宗高野山派・太融寺で講習を受けて加持祈祷師の資格を得、またこのときに受職灌頂を受けて「智辯」と改めた。さらに翌年の2月には布教師の免許を取得している。
 昭和23年、十輪寺内に智辯を信奉する信徒たちによって「辯天講」が結成され、同27年1月10日には、大辯才天女尊を本尊とする「辯天宗」を立宗し、自ら宗祖となった。また初代管長に夫・智祥が、宗務総長に長男・慈祥が就任した。
 昭和29年10月、智辯は十輪寺の隣接地に、総本山宇賀山妙音院如意寺(通称大和本部)を建て、同37年に、東京向島に東京本部を建設した。さらに智辯は辯才天より「衆生救済の道場をつくれ」とのお告げがあったとして、同39年4月、大阪府茨木市に教団第二の霊場となる本殿、飛龍山冥應寺(通称大阪本部)を完成させ、その翌年には、奈良県五條市に智辯学園を創設している。
昭和42年2月15日、智辯は57歳で死去した。教団では智辯の死去について「死んだのではなく神の世界に還った(御遷神)」といい、「身はこの霊地に留まり、救済を続けている」としている。
 智辯の死後、第1世管長となった智祥は、同52年、東京本部を向島から渋谷に移転した。同56年には、大阪本部の敷地内に高さ73メートルの水子供養塔を建て、水子供養の奉祀者を募り、新しい信者の獲得の拡大を図ろうとしている。
 同62年12月、第1世管長智祥は87歳で死去し、長男慈祥が第2世管長に就任した。

【教義の概要】
 辯天宗の本尊は、大辯才天女尊である。大辯才天女尊は、古代インドにおいては水の精や河川の支配神とされ、音楽や辯舌の徳を持ち、食糧や収穫をもたらす神とされている。しかし教団の本尊である辯才天は、宇宙創生以前に存在し、あらゆる現象を支配する宇宙最高の神として定義され、またそれが宗祖智辯の身に顕れた辯才天であるとしている。
 大和本部には、八臂(八本の腕)の辯才天が祀られ、さらに弘法大師や智辯の童女像も安置されている。また大阪本部では、智辯の木像や信者の位牌などが安置され、同本部内の水子供養塔には八臂の辯才天がそれぞれ祀られている。
 信者は、それぞれの家庭に「御分身」と称する辯才天の小さな像を祀るほか、辯才天の眷属(従者)として人々に衣・食・住や財産・地位・名誉等の福徳を与えるという15童子の中から、自分の願いごとに適した童子を選び、それを教団内施設に預けて祀ることになっている。
 辯天宗が依り所とする『大辯才天礼拝経』は、真正の経典ではなく、真言の唱え言葉や智辯が創作した『辯才天礼拝経』と称する訓誡などを収録したものである。また、辯天宗の教義の原典とされている『水の章』は、宗祖智辯が辯才天から授かったという「五行のお諭し」について、六六の条目に分けて解説した書である。
 教団では、宇宙最高の神である辯才天によって設計され、創り出された宇宙の万有の法則こそが〝水の心〟であるとし、人は辯才天にすべてを委ね、水の心になりきることで生命が浄化されるとする。すなわち、水を善なるものとして「低きに流れるは謙遜」「とどまることが無いのはたゆまぬ求道心」「容器の形にそって姿を変えるのは我の無い心」などと説明して「水の心、水の姿こそが人の道」であると主張する。
 この水の心を会得するための実践徳目・行動規範が「五行のお諭し」である。それは、
一、真心を常に忘るべからず
一、慈悲愍みの心を養うべし
一、善根功徳の行を積むべし
一、感謝の誠を捧ぐべし
一、不平不満を想うべからず
というものである。
 また、人間にはそれぞれ悪因縁があり、それを消滅させなければ真の幸福を築くことはできないとし、しかも悪因縁の消滅方法は一人ひとり異なるから、すべて辯才天からの「御神示」によらなければならない、と説いている。
 教団では、これらの教えを修得し、悪因縁を消滅するために「感謝祭」と「お運び席」に出席することを強く勧めている。
 「感謝祭」は、辯才天へ感謝を捧げる祭典のことで、各本部・支部・教会等において毎月開催され、そこでは僧侶・指導員等による法話が行われる。
 「お運び席」は、毎月2回本部に足を運ぶことをいう。これには初席・中席・研席の3つの席があり、それらの席において『宗祖伝』『おことば集成』『信者訓誡理解』などをテキストとして受講し、満席(24席)になるまで話を聞くことが義務づけられており、この行によって信仰の道が深められ、罪や穢れが消滅するという。
 その他、教団には「きゅうり加持」と称する祈祷がある。これはきゅうりを人の体に見立てて加持を加え、蔓のついている方を東に向けて地中に埋め、1週間、毎朝真言を唱えながら水をかけることによって、夏の病気を封じ込めることができるなどとしている。

【破折の要点】
◆辯天宗では、教団の本尊である辯才天は、古代インドで信仰されたという辯才天や仏教で説かれる辯才天ではなく、宇宙創生以前から存在し、あらゆる法則を創った神であり、その神が宗祖・智辯の身に顕れた辯才天であると主張している。
 しかし、教団で祀る大辯才天女尊の姿は、8本の腕(八臂)をした女神であり、これは『金光明最勝王経』に説かれている辯才天そのものである。
 仏教に説かれる辯才天を用いながら、仏教で否定する宇宙創造神にすり替え、本尊として拝ませることは、仏の意に背き人々を地獄に陥れる邪説である。

◆辯天宗では、宇宙は〝水の心〟を持つ辯才天の意志によって創造され、生命は水の揺動から生まれた、と主張している。
 しかし仏教では、万物は地水火風空の因縁和合によって生ずると説くのであり、決して創造神によって造られたとか、水の揺動によって生命が誕生したなどとは説かない。このように辯才天に合わせて水だけを絶対視する辯天宗の教えは、仏教とは無縁の外道義そのものである。

◆教団では「水」を宇宙の根本原理とし、水の特性に合わせた生き方によってのみ人間は幸福になることができると主張する。しかし、仏教で説く根本真理とは、仏のみが悟った因果の理法を指すのであり、仏は水や水の働きを宇宙の根本原理であるなどとは説いていない。
 教団が主張するような水の特性に合わせた生き方をしたとしても、それで幸福な境界を得ることはできるはずもない。かえって仏法の道理に背く結果となり、不幸を招くことになるのである。

◆辯天宗では、堕胎した水子は生者を恨んだり、供養を求めたりして、その家族に強く霊障があらわれ不幸の原因となると教え、盛んに水子供養を勧めている。
 しかし、仏教では自身が積み重ねた過去の十悪・五逆・誹謗正法等の悪因によって、現在及び未来の悪果報を招くと説くのであり、水子による霊障が不幸の原因となるなどとはどこにも説いていない。無論、安易に堕胎や中絶を行うことは、生命軽視として大きな悪因となることはいうまでもないが、それと霊障とはまったく関係はない。さまざまな理由から子供を失った親の悲しみや罪悪感に付け入り、水子の祟りと称して恐怖心を煽るこの教団は、仏法利用の悪質極まりない教団といわざるを得ない。

◆教団では、病気封じの秘儀として「きゅうり加持」なる祈祷を行っている。しかし、このような祈祷などで病気が治るはずもなく、迷信・邪信の域を出るものでない。


 
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