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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 神道系 ほんみち

十 ほんみち

  創 立   大正2年旧7月15日
  創始者   大西愛治郎(甘露台)
  現後継者  大西泰彦(やすひこ)(愛治郎の孫・甘露台)
  信仰の対象 宇宙万物創造主の親神、天啓者・甘露台
  教 典   『教義一斑』『みかぐら歌』『御筆先(おふでさき)』
        『泥海古記(どろうみこうき)』『お指図(さしず)』等
  本部所在地  大阪府高石市羽衣3―1-72
  信者数    318,763
  名称の変遷 天理研究会(大正14年) 天理本道(ほんみち)(昭和11年) ほんみち(昭和25年)

【沿革】
 「ほんみち」は、天理教の地方幹部であった大西愛治郎が、自らが中山みきを後継する天啓者であると主張し、天理教から分派・独立した教団である。
 大西愛治郎は、明治14(1881)年に奈良県宇陀(うだ)郡宇多村(現宇多町)の農家、岸岡家に生まれた。19歳のときに母親の難病を縁として天理教に入信した。
 母親はまもなく死去したが、これを岸岡家の悪因縁によるものと考えた愛治郎は、生涯を天理教の布教にささげることを誓い、学業を捨てて上京し、さらに群馬県安中町(現安中市)に移り、布教活動に励んだ。
 明治37年、愛治郎は奈良県添上郡(そえかみぐん)東市村(現奈良市)の大西家に婿入りしたが、所属していた奈良分教所会長の依頼によって、山口県内の三布教所を整理・復興するために、同県花岡町(現下松市)に転居した。同40年、26歳の愛治郎は山口県の教会長となり、同43年には岡山教務支庁の主事に任命された。
 その後、信徒への病気なおしに限界を感じ、信仰に行き詰まった愛治郎は、大正2年3月から宣教所の一室にこもり自己批判を続けた。その際、さまざまな幻覚に襲われたという。
 同年旧7月14日の夕刻、愛治郎は裸となり、妻と2人の子供の衣服を脱がせ、愛治郎が次男を、妻が長女を背負って部屋の中を早足で回り続けた。15日の午前零時すぎ、自然に足が止まった時、愛治郎は忽然として「甘露台とは場所だけではなく人間の甘露台もあり、教祖中山みきに続く生神(甘露台)は自分である」と確信したという。ほんみちでは、この大正2年旧7月15日を教団創立の日と定めている。
 同年12月、愛治郎は自分こそみきに続く新しい天啓者であると記した手紙(これをまとめたものを『甘露台古記(こうき)』という)を天理教本部と直轄教会長全員に郵送した。翌3年1月に親教会にあたる奈良分教会から異端邪説を唱える者として、教会長職の辞任勧告を受けた。奈良へ移転した愛治郎は、その後、約10年間にわたり毎月1回、書簡を郵送し続けた。
 大正9年6月、愛治郎の手紙を読んだ1人の天理教布教師が訪ねてきたことがきっかけとなり、次第に天啓者不在の天理教教団に疑問をもつ者や教団の世俗化を憂える天理教の信者が愛治郎のもとに集まりだした。
 大正13年2月、天理教本部から教師の資格を剥奪(はくだつ)された愛治郎は、翌14年に奈良県当麻(たいま)町に道場を建設し、「天理研究会」と称した。
 昭和2年、同会は小冊子『研究資料』を発行し、各界の有力者に配布した。これは天理教の在り方を批判するとともに、天皇に対して日本統治の資格はないと断じ、大戦と国家滅亡の危機を予言し、さらには甘露台による神政の実現を主張するというものであった。この配布によって、翌3年、愛治郎らは不敬罪で起訴されたが、大審院は愛治郎らを精神異常者とみなし事件を不問に付した。昭和11年4月、愛治郎は教団名を「天理本道(ほんみち)」と改称した。
 同年末に妻トヲが病で倒れ、これを神からの自分に対するさらなる布教の要請とうけとめた愛治郎は、同13年『研究資料』と同趣旨の『書信』を総計900万部を印刷し、国内に配布した。このため愛治郎らは不敬罪・治安維持法違反で起訴され、翌年、内務省によって教団は解散処分となった。同17年9月の第一審では、愛治郎が無期懲役、幹部らも刑に処せられたが大審院へ控訴中に終戦となり、連合国軍総司令部の命令により政治犯とみなされて全員が釈放された。
 翌21年2月に大阪府高石市羽衣に本部を置き、宗教法人令による宗教法人「天理本道」を設立し、3月、愛治郎は長女アイ子を教主に、次男正憲を管主に任命して教団の再建を図った。同25年8月、教団名を「ほんみち」と改称し、同28年に信徒の労働奉仕(ひのきしん)によって本部神拝殿が完成した。
 昭和33年11月28日、愛治郎は78歳で死去した。その後、次女大西玉を後継者として擁立するグループが台頭したが、その派は昭和37年1月に「ほんぶしん」として分派・独立した。
 教団は「愛治郎が、生前〝死んでも大西家に甘露台として再生する〟と公言していた」とし、同37年5月に「管主の子息が愛治郎の再生である」と発表した。この子息とは、後に甘露台となる7男泰彦である。
 同41年、教主アイ子の死去に伴い管主正憲の長男元興が教主の後継者に、5年後、管主正憲の死去により次男正隆が管主の後継者となって、泰彦が成人して甘露台に就任するまでの教団運営にあたった。
 同52年、教団はひのきしんにより泉南市に「信達神拝殿」を建設した。
 同54年1月、泰彦が甘露台に就任し、その任命によって正式に元興が教主に、正隆が管主にそれぞれ就いた。
 同62年10月、泉南に「ほんみち神拝殿」がひのきしんによって建設し、平成元年からは、本部において定席と称し、全国に置かれた出張所では略席と称する講習会を開いている。

【教義の概要】
 教団では、本部及び信徒宅においても、人間はじめ宇宙万物創造主の親神(月日様)を目標(めど)(崇拝対象)と称する御神鏡(ごしんきょう)を祀り、「南無甘露台」と唱える。
 教典は、愛治郎の著した『教義一斑』と、天理教の教祖中山みきが著した『みかぐら歌』『御筆先』と、みきと本席の飯降(いぶり)伊蔵(いぞう)が示した『お指図(さしず)』、みきが命じて作らせた『泥海古記(どろうみこうき)』である。
 ほんみちでは「甘露台人の理」を説いている。これは、天理教が「甘露台」を「神が人間を宿し込んだ〝ぢば〟と呼ぶ場所」と規定しているのに対し、ほんみちでは「親神の心を人間に取り次ぐ唯一人の存在、つまり天啓者である」として、人を甘露台に当てるものである。しかも、その甘露台(天啓者)は、天保9年から大正元年までは「教祖・みき」、大正2年以後は「創始者・大西愛治郎」であり、さらに愛治郎の死後は「愛治郎の再生者である」と主張する。
 また、ほんみちでは、教えの内容を「教理」と「教義」とに分ける。教理とは「教祖・みきが示した永久不変の天理の教え」であり、教義とは「教理を人間界に取り次ぐ、天啓者・甘露台による直接的な教え」であるとし、この2つによって世界を最善に導き、人間を喜びの心にすると説いている。
 すなわち親神は、楽しみばかりの陽気な生活を営む世界を築くことを目的として、自然界と人間を造り育てたが、人間は意識しないうちに自身の心の内にほしい・おしい・かわい等の「八つの埃」を積み重ねてしまう。そこで人間の心得違いを改めさせようとして、神が病気、不幸、災難を人間に示すと教えるのである。
 また教団では、近い将来に世界の危機「終末の世」が到来する、とも説いている。愛治郎が「世界の大掃除、越すに越せんの関」と示したように、理想社会である「甘露台世界」を迎えるにあたって、人々の心に溜まった八つの埃を一掃するための大難関が必ず起こるという。この危機を乗り越える唯一の教えがほんみちであると主張し、甘露台・天啓者を中心に救済に立ち向かう人材となる信徒「みち人(びと)」づくりを目指すとしている。
 信者の活動には「匂いがけ」と「ひのきしん」がある。匂いがけは主に個人で行う伝道・布教をいい、ひのきしんは労働奉仕による施設の建築や維持管理をおこなうことである。これにより全員が心を一つにする「心のふしん」ができるとされる。
 教団本部では、10月26日の大祭(みきが神がかった日)とみきの命日である1月26日には、赤衣、黒衣を着た各6名により「御神楽(おかぐら)」が行われる。
 信者の朝夕のつとめは、御神鏡の前に座り、みきによって定められた「お手振り」をしながら「あしきを払うて助けたまえ、てんりおうのみこと…」等の文句を謡い、「南無甘露台」と唱える。

【破折の要点】
◆天理教の信仰に行き詰まり長期間部屋にこもっていた愛治郎が、ある日突然、妻と2人で裸になり、それぞれ次男と長女を背負い、部屋の中を六時間ほどぐるぐる回り続ける異常な状態で、自然に足が止まったときに自分が天啓者「甘露台人の理」である自覚したという。このような不合理な天啓者の教えに基づく「ほんみち」は荒唐無稽な教団で、天理教を真似た外道である

◆ほんみちが教典としている教祖みきの『お筆先』等に、「大正2年に大西愛治郎が天啓者となる」との言葉はないし、『お指図』のなかで本席・飯降伊蔵は「教祖みきが永遠にじばに存在する」といっている。
 ほんみちの「愛治郎が天啓者である」との主張は、教団自ら規定している教典の内容と矛盾し、愛治郎が勝手にいい出したものである。

◆何ら根拠もなく「近い将来に世界的危機がおこる」と人々に恐怖心をあおって信者を教団にとどめておく「ほんみち」は、卑劣極まりない宗教である。


 
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