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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 神道系 円応教

十二 円応教

  創 立    大正8年7月
  創設者    教祖深田千代子・初代教主深田長治
  現後継者   2代教主深田充啓
  信仰の対象  大御親(円鏡)
  教 典    円応教教典
  本部所在地  兵庫県氷上郡山南町村森1―1
  信者数    461,243
  名称の変遷  円応法修会(大正14年) 円応修法会(昭和6年) 別派円応報恩会(昭和8年) 宗教法人円応教(昭和23年) 別派円応報恩会合併

【沿革】
 円応教は、“神憑り”をした教祖の深田千代子が没してより20数年を経て、その子供である深田長治が初代教主となって宗教法人を設立した教団である。
 教祖千代子は、明治20(1887)年、兵庫県氷上郡に生まれた。13歳で母と死別し、父親と弟たちを支える苦しい生活を続けていたが、同40年、21歳のとき、呉服屋の番頭を務める笹倉三治と内縁関係になり、翌年3月、後に教主となる長治を産んだ。しかし三治はその1カ月後、かすりを仕入れに行った四国で強盗に逢い、金品をとられたうえで毒殺された。
 翌年春、千代子は、長治を父親に預けて芝居役者の河合静雄と結婚し、大阪において、夫によく従ってつましい生活を続けたという。
 大正7(1918)年ころ、それまで信仰には関心を寄せなかった千代子が、知人の勧めによって大阪日本橋の「聖天」(体は人間で頭が象の姿をしている大聖歓喜天)ヘ参拝するようになった。
 翌年、33歳となった千代子は、徐々に日常の感覚の変化を感ずるようになっていたが、ついに7月、月に合掌しているうちに形相が変わって“神がかり”の状態となり、この興奮状態が4日間続いて霊感を体得したという。千代子は、このとき「神の使いしめとして、世の中の道具になれ」との天啓を受けたとし、今まで夫に従っていた姿を逆転させて、夫を従えることとなった。後に教団では、この日を立教の日と定めている。その千代子のもとには、悩みを解決してもらおうとする人々が集まるようになり、千代子は「修法」「うかび」と称する独自の秘儀によって、病気直しなどを行った。
 しかし、千代子は6年ほどの巡教活動をしたのち、大正14年1月、39歳で死亡し、その葬儀は、深田家の菩提寺(臨済宗霊雲寺)の住職であり、かねて千代子に帰依していた林誠道によって行われた。
 千代子の死後まもなく、遺弟により「円応法修会」がはじめられた。この「円応」の呼称は、千代子の戒名・慈照院円応智覚大姉にちなんだものである。昭和6(1931)年、これが「円応修法会」と改称して、霊雲寺住職・林誠道が会長を務めることとなった。2年後にこの集まりから「円応報恩会」が分立するが、同16年、ともに『宗教団体法』によって解散させられている。戦後再建された両団体は、円応修法会が同23年6月、宗教法人「円応教」となり、まもなくこれに円応報恩会が合併して、千代子の子である深田長治がその初代教主に就任した。
 以後、円応教は、千代子の神憑りの言葉と臨済宗の影響を混在させながら、仏教でもなく神道でもない新宗教として組織を拡大させ、同51年に初代教主・長治が死亡したのち、その長男充啓が2代教主に就任して現在に至っている。

【教義と修行】
 円応教では、教祖千代子が3年半にわたって残した手紙や随感などをまとめた『御教祖様御遺文集』をもとに、初代教主・長治が制定した『円応教教典』を用いており、これに収められているのは、“御遺文抜粋”と“日課勤行文”などである。
 “御遺文”の内容は、「千代子も我の身の上研究のたつる上は、世の現代のためになりたき。ならぬ時は、もはや姿なき魂にて働かねばならぬ世の中の人の道具に生まれ、因縁らしく思います」などというものである。また“日課勤行文”には、「人間性を重視し、人種男女の差別を廃し、礼節を尚び、一視同人であること」などの“信者訓戒”10項目に続いて、“自覚反省懴悔文”や各種の“感謝文”に道徳や布教の心得などが記されている。
 円応教では、信仰の対象を「大御親」とし、本部などではその象徴としての「円形の鏡」を中央に置き、その周りに千代子教祖の戒名や先祖などを祀っている。また信徒に対しては、信仰の対象として氏神・先祖・神仏などのいずれを祀ることも各自の自由とし、千代子の戒名を「霊符」として与えることもある。そして大御親こそすべての生命の根源であるから、その根源に帰一して「世の中の道具」となり、悩める人を救い、徳を積んで人格の完成を目指すとき、世界平和が実現するという。
 そのために行うのが「修法」で、これは教祖千代子が「行・お手合わせ」などと呼んでいたものである。この修法は、千代子が“神がかり”をして霊感を得た時に、手先が動いたり身体に表れたという現象にならおうとするもので、個人が大御親を拝む形もあるが、主として布教師が信者と向かい合い、相対する者が互いに拝み合うという形態で行われている。そして、悩みなどの解決を願う信者は、布教師の口から出てくる「教文」と称する言葉によって答えを得、自己救済をするというものである。
 また呪術的な修法を行わない時には、その補佐的な位置付けとして、千代子が「うかび」と称していた直感力・霊感力をもって行動することを指示している。

【破折の要点】
◆円応教では「大御親」を本尊とし、その象徴として「円鏡」を祀りながら、信徒の信仰対象は各自の自由として、氏神・先祖・神仏のいずれを拝んでも良いとする。これについて初代教主・長治は、「万物を生かしうるものは何かわからないが、そのわからないものが私たちは大御親と。わかるものとして具体的なあらわれは、先祖とか氏神様」などといっている。そのうえで、「世の中の道具となり、人格を完成させることが最終目的」とするが、宗教にとって本尊が最も重要な意義を持っているにも関わらず、信仰の対象が何でも良いとすることはいいかげんな教えというべきであり、そのような円応教によって人格の完成などできる訳がない。かえって自らが悩乱の結果を迎えることは必定である。世の中のために役立つ人格は、正しい本尊と教えによらなければ作れないことに気づくべきである。

◆初代教主の長治が作った『円応教教典』の内容は、教祖の意味不明の言葉と、仏教、特に禅宗や、神道・道徳論などの都合のよいところを寄せ集めたものとなっており、宗教としての一貫性がまったくない。これは、初代教主・長治が、錯乱した母を利用し、ご都合主義で教団を創立した証しにほかならない。
◆″神憑り″は、日常性を喪失した錯乱状態であり、医学的に見れば精神の歪みとされている。この状態となった教祖を信じ、教典にしたがって「修法」などを行う者は、教祖と同じく自身も錯乱状態となって日常性を失い、人格の破壊が起こることを知るべきである。


 
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