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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 神道系 金光教

二 金光教

  立 教   安政6(1859)年10月21日
  教 祖   赤沢文治(金光大神)
  現教主    金光平(こんこうへい)輝(き)(4代目教主)
  信仰の対象 天地(てんち)金乃神(かねのかみ)並びに生神(いきがみ)金光大神(こんこうだいじん)
  教 典   『金光教教典』
  本部所在地  岡山県浅口郡金光町大谷320
  信者数    430,190
  名称の変遷 神道事務局所属金光教会(明治18年) 金光教(明治33年)

【沿革】
 金光教は、教祖・赤沢文治が祟(たた)り神であった金神(こんじん)を「天地(てんち)金乃神(かねのかみ)」と名付け、人類を救済する神であると主張し、創立した神道系の教団である。
 赤沢文治は、文化11(1814)年、備中国占見(うらみ)村(現岡山県金光町)の農家・香取(かんどり)家の2男として生まれ、12歳のときに川(かわ)手(て)家の養子になった。
当時の備中国(岡山県)は、金神信仰が極めて盛んな地域であった。金神は陰陽道で説く神で、年、月、四季に応じて住む場所を移すとされる。この神のいる方位を侵(おか)して土木工事、建築、旅行などの行為をした人間は、身内の者が7人まで殺されると信じられていた。
 天保7(1836)年7月に義弟が6歳で病死し、翌月には養父も病死したことから、文治は23歳のときに家督を嗣いで赤沢姓に改めた。この義弟と養父の2人に続いて、長男・長女・二男と次々と病気で失い、さらに飼育していた牛が2年続けて病死するなど、身内の不幸が7度続き、文治はこれらの不幸を金神七殺の崇りであると恐れた。
 安政2(1855)年、文治は扁桃腺炎にかかり重体となった。病気平癒を祈祷師に依頼したところ、その祈祷師が神がかり「金神に無礼をしている」との神託が下った。文治がその無礼をひたすら詑びたところ「神徳をもって助けてやる」といわれて文治の病気も治ったという。
 安政4年10月、文治の実弟・香取(かんどり)繁右衛門(しげえもん)に金神が憑依した。文治は、弟をとおしてはじめて人格的に応答する金神と接して、いよいよ金神信仰に励んだ。翌年正月、金神から「氏子」と認められた文治は、金神の啓示「お知らせ」を自分の手の動きで知るようになり、やがて、言葉となって自然に口から出るようになったという。
 安政6年10月21日、46歳の文治は、金神より「世間に多くの難儀な氏子がいる。その氏子達を取次ぎ助けてやってくれ」との神命をうけたという。この日より文治は、自宅の座敷を金神への取次の場所とし、人々の願い事を金神に取り次ぐ生活に専念した。金光教ではこの神命を「立教神伝」と呼び、この日を立教の日としている。
 その後、ある妊婦が文治の取次によって麻疹(はしか)を治したことが評判となり、次第に信者が増え、立教から3年後には2カ所の出社(でやしろ)を持つまでになった。この頃「百姓の身分で祈祷を行い、民衆を惑わす」との非難が起き、文治は布教の公認を得るために、元治元(1864)年、神祇官長職・白川家に入門し、その資格を得た。慶応3(1867)年、文治は自宅を金神社(こんじんしゃ)とし、白川家より金神社神主金光河内(こんこうかわち)という名で神職補任状を授けられた。
 明治元(1868)年、文治は金神から「生神(いきがみ)金光大神(こんこうだいじん)と名乗れ」との神託を受けたとしている。
 明治5年の戸籍法の制定により、文治は役所に「金光大神」との名前を届け出たが、名前に「神」は使用できないとして戸籍上は「大陣」と記載された。しかしこれ以後、文治は「金光大神(こんこうだいじん)」を名乗り、翌6年には自分の信仰する神を「天地金乃神」と定めた。また信仰の対象物として「天地書附(かきつけ)」を顕し、4男萩雄と5男宅吉(いえよし)にもこれを書き写させ、信者に下附した。同11年、金神社を素盞鳴(すさのお)神社と名称を変更することで、布教が公認された。
 明治16年10月10日、金光大神は70歳で死去し、取次は5男の宅吉(いえよし)が継承した。教祖の死より2年後の同18年6月、教団は神道事務局(のちの神道本局)に所属する金光教会となり、同33年6月には金光教として別派独立し、金光(こんこう)大陣(だいじん)の名前を継いだ4男萩(はぎ)雄(お)が管長に就任した。
 その後、管長と本部取次者の二極体制によって教団が運営されていたが、昭和8年に主導権争いが起こり、昭和16年、宗教団体法による許可申請の際、取次者と管長職が一つになり一元化された。
 昭和58年の教祖100年祭に、本部総合庁舎を建て、『金光教教典』を発刊し、さらに神社神道様式であった儀礼を教団独自のものに改めた。
 平成3年3月、3代教主金光鑑太郎(かがみたろう)の死去に伴い、長男平輝(へいき)が教主に就任した。

【教義の概要】
 金光教では、「天地金乃神(てんちかねのかみ)」と、教祖「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)」を主祭神としている。
 教祖は当初、主祭神を金神の別称として「鬼門(きもん)金之神(かねのかみ)」、「鬼門金之神大明神」等としていたが、やがて金神に日天、月天の二神を合わせて「天地三神」と呼称し、最終的に天地金乃神と表現した。
 教会や信徒の家庭に掲げている信仰対象は、明治6年、教祖が「神からのお知らせ」として書き記した「天地書附(てんちかきつけ)」であり、「生神金光大神 天地金乃神一心ニ願 おかけハ和賀心仁あり 今月今日てたのめい」という四句からなっている。教団では、これを「教祖が、信心の要諦(ようたい)を端的に示したもの」(金光教教典付録22・趣意)とも称している。
 教典は、昭和58年10月に発行した『金光教教典』である。この教典は、教祖金光大神が著した『金光大神御(おん)覚(おぼえ)書(がき)』と、弟子たちが教祖より聞いた教えの内容を収録した『金光大神御理解集』等が収録されている。
 教団では、信仰の実践、人々の救済の方法は取次にあるとしている。信徒は教会に行き、献金をして、願いを神に取り次いでもらい、教主・教会主の口を通して、神からのお知らせの説明を受け、「ご神米(しんまい)」と称する洗米が授けられる。
 信者は、そのお知らせのとおり行動し、さらに信心を深め、自らも人を助ける立場、つまり生神(いきがみ)となることを信仰の目的とする。教祖・金光大神は、人間の自己中心的な考えで営まれる世界を人代(ひとよ)とし、人が生神となって造りだす世界を神代(かみよ)と称して、人代を神代に立て直すことを信者に命じている。

【破折の要点】
◆もとは単なる祟り神であった金神が、三神天地神(さんじんてんちのかみ)など7つの神名の変遷を経て、やっと立教15年目に「天地金乃神」という名称に定まり、しかもいつの間にか全人類を救う神に昇格していたなどという金光教の主張は一貫性がなく、まったく信ずるに値しないものである。

◆教団の主祭神は、もともと祟り神である金神によって、教祖個人が偶然に扁桃腺炎が治ったということだけで、この神を主祭神と祭り上げており、祟り神が救いの神となる根拠や因果がまったく不明である。このような思いつきで立てた神が人を幸せに導くことなどできるわけがない。

◆金光教では、一般的に教義と呼ばれるようなものはなく、取次による神の言葉「お知らせ」が絶対であり、日常生活のすべてを神の命ずるままに行動せよと教えている。しかし、教祖が神意を伝えるとされる「お知らせ」は、次のようにいい加減な内容である。
 「教祖がある時『お神酒(みき)をつけて接げば、割れた茶わんでも接げる』と言った。ある人が『それでは、私もいたしましょうか』と伺うと、教祖は『それでは茶わん接ぎの仕事がなくなって、飢えてしまう』と答えた」(教典484)
 「片目がうずいて困っていた人が、教祖に願うと『春の花の4日を楽しめ』と言った。しかし、その日には治らず5日に再び尋ねると、教祖は『その方の命は、花の節句には花のごとくに散るのであった。それを助けてやったのである。命がなくては目はいらないであろう。生きていればこそ目が痛いのがわかるのであろう』と答えた。そして『5月の菖蒲を楽しめ』と言った。5月にその人の目はだいぶよくなり完治せず、再度訪ねると『7月の7日を楽しめ』と言われ、この時に目の痛みが治った」(教典488)
 このような「お知らせ」なるものは、所詮人間の思いつきの言葉であり、この言葉に日常生活のすべてをゆだねて幸せになれるはずがない。まさに金光教は邪教である。


 
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