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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 神道系 大本

三 大本

  立 教    明治25年旧正月5日
  教 祖    開祖 出口なお、聖師 出口王(お)仁(に)三郎(さぶろう)
  現教主     五代 出口紅(くれない)
  祭 神    大本皇大神(おほもとすめおほみかみ)
  教 典    出口なおの〝お筆先〟を編集した『大本神諭(しんゆ)』、出口王仁三郎が口述した『霊界物語』
  本部所在地  京都府亀岡市荒塚町内丸1
  信者数    172,094
  名称の変遷  金明(きんめい)会(明治32年7月) 金明霊学会(明治32年8月)大日本修(しゅう)斎(さい)会(明治41年8月) 皇道(こうどう)大本(おおもと)(大正5年) 大本(大正10年) 皇道大本(昭和8年) 愛善苑(昭和21年) 大本愛善苑(昭和24年) 大本(昭和27年)

【沿革】
 大本は、開祖出口なおとその娘婿である出口(だぐに)王仁三郎(おにさぶろう)の二人を教祖とし、神が世の中を立て直し、地上天国「みろくの世」を建設すると主張する教団である。

〈開祖 出口なお〉
 出口なおは、天保7(1836)年旧12月、丹波国福知山(現・京都府福知山市)の大工であった桐村家の長女として生れた。なおは、同国綾部の叔母・出口ゆりの養女となり、19歳のときに結婚して11人の子をもうけたが、3人が早世し3男5女を育てた。明治20年、なおが51歳の時に夫が死去し、幼子をかかえ困窮生活が続いた。
 明治25年旧正月5日、なおが57歳のとき「艮(うしとら)の金神」がなおに神憑かった。この金神は「表(おもて)に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ」といったという。教団では、この日を大本開教の日としている。
 翌26年、神懸かったなおの奇妙な言動をみて、親族はなおを座敷牢に閉じこめた。文字が書けなかったなおであったが、神の言葉を牢内にあった釘で柱に書いたという。これがなおの「お筆先(ふでさき)」のはじまりとしている。このお筆先は、なおが死去するまでの27年間に、半紙10万枚に達したという。
 その後、なおは病気なおしの祈祷をするようになり、「綾部の金神さん」との評判がたち、日清戦争開戦の予言が的中したことで信徒が増えていったという。なおの評判を聞いた金光教は、なおと協力して布教するために綾部に布教師を派遣し、明治27年11月になおの信者を中心とした教会を開設した。この教会は、金光大神と艮の金神を併せて祀り、6畳一間の座敷を借りたものであった。なおはそこに住み、病気治しを中心に布教し、農家の信者が増えていった。
 しかし、金光教の布教師は、艮の金神となおのお筆先を軽視したため、なおは金光教から別れ、明治30年4月に艮の金神を祀る教会を開いた。同年6月、「この神(艮の金神)を判(わ)けるお方が東から来るぞよ」との神示があったとし、なおは金光教とはつながりのない有能な組織者で、この神の力となる人物の出現を渇望していた。そのようなとき、なおを訪問した人物が、出口王仁三郎(おにさぶろう)であった。

〈聖師 出口王仁三郎〉
 王仁三郎は、本名を上田喜三郎といい、明治4年旧7月、丹波国亀岡(現京都府亀岡市)の農家に生まれた。少年期に祖母より言霊(ことだま)学を学び、青年時代には岡田惟平(これひら)より国学と和歌を学んだ。
 明治31年3月、喜三郎27歳のとき、郷里の高熊山(たかくまやま)(現京都府亀岡市)の洞窟で1週間の修行をし、その際、神界におもむき、天眼通・天耳通・自他心通などや鎮魂(ちんこん)帰神(きしん)の大要を体得し、救世の使命を悟ったという。
 そして、喜三郎は神の道を説き弘めようとしたが、「一つの教派を開こうと思えば、まず、病気治しからはじめるべきだ」との隣人の助言で、病気治しをはじめて近隣の人々の評判となった。さらに喜三郎は、隣人宅で神憑りの法「幽斎(ゆうさい)」の指導をはじめた。これは、喜三郎が審神者(さにわ)となり、人々に憑かる神(霊)の正邪を見分けるというものである。
 同年4月に喜三郎は、駿河(現静岡県清水市)にある長沢(ながさわ)雄楯(かつたて)の稲荷講社総本部に3日間入門し、長沢から本田親徳(ちかあつ)が主張する霊学を学び、「鎮魂帰神の二科高等得業を証す」との免状を受けたという。
 帰郷した喜三郎は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の分霊から「園部の方へ行け」との神命を受けたとし、亀岡より園部に向かう途中、綾部の出口なおと出会う。
 この明治31年10月の初対面では、喜三郎が〝信仰する神は稲荷である〟との言葉になおは難色を示し、2日間で喜三郎は園部に向かった。園部で喜三郎は、霊学会を創設して布教し、病気治しと審神者として有名になり信者を獲得した。

〈大本教団〉
 明治32年7月、なおは〝艮の金神がどのような神であるか明確に説明できる人物〟として園部にいた喜三郎を綾部に迎えた。そして、なおが教主、喜三郎を会長として「金明(きんめい)会」を発足し、翌8月には喜三郎がつくった園部の霊学会と合同し「金明霊学会」を設立し、稲荷講社の分会として宗教活動の合法化をはかった。
 翌33年1月、なおは5女すみを後継者と定め、喜三郎とすみを結婚させ、喜三郎を養子とした。ここに開祖なおが経糸(たていと)、会長喜三郎が緯糸(よこいと)、後継者すみが要(かなめ)の役とする大本教団の基礎が成立した。
 明治35年3月、喜三郎夫婦に長女が生まれた。神命により〝直日(なおひ)〟(後の3代教主)と名づけられ、喜三郎もこのときから〝王仁三郎〟と改名した。そして、なおは代々女系による教団の継承を定めた。
 王仁三郎は、教団活動の合法化をめぐってなおと意見が対立して綾部を去った。明治39年、王仁三郎は京都の皇典講(こうてんこう)究分所(きゅうぶんしょ)に入学して神職の資格を取得し、建勲(けんくん)神社の主典を務め、同41年3月には御嶽(おんたけ)教の役員となった。さらに、王仁三郎は大成教とも関係をもち、同年6月には綾部に大成教直轄の直霊教会本院を設置してその管長になった。
 明治41年8月、王仁三郎は教団名を金明霊学会から「大日本修斎会」と改め、12月に綾部にもどったが「大成教直轄・直霊教会」との看板を掲げた活動であった。教団の運営は王仁三郎が中心となり、なおは筆先を書いたり、神前で病人や妊婦に下付する護符である「おひねり」を作って過ごした。
 大正3年、「皇道大本」と改称した教団は、第一次大戦中から戦後にかけて鎮魂帰神の集団的神がかりの行法と、〝世の立替えの時到る〟との予言を大々的に宣伝し、経済界、軍人、知識人の入信が相次いだ。同6年、王仁三郎はなおの筆先を自ら編集し、『大本(おおもと)神諭(しんゆ)』として機関誌に発表しはじめた。
 大正7年11月6日、なおは81歳で死去し、5女すみが2代教主に就任した。王仁三郎は、開祖なおと対等の「聖師」としての教義上の地位を確立した。翌八年、教団は亀岡城跡地を入手した。後にこの亀岡を布教の中心地として「天恩郷」と名付け、教団発祥の地・綾部を「梅松苑」と称し、祭祀の中心地とした。
 大正9年8月、教団は大阪の大正日々新聞社を買収し、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を上回る発行部数で再刊し、「大正十年立替え説」を主張して布教拡大を目指した。
 〝世の立直し〟との教団の主張は、国家体制を破壊する危険思想として大正10年2月、王仁三郎と幹部2名は、不敬罪及び新聞紙法違反で起訴された。そして、綾部の神殿は破壊され、開祖なおの墓は皇陵に類似しているとの理由で、強制的に改築させられた。これが第1次大本事件である。王仁三郎は、京都地裁で懲役5年の判決が下されるが、控訴中、大正天皇崩御に伴う大赦で無罪となった。
 第1次大本事件の大正10年秋より王仁三郎は、明治31年に故郷高熊山の修行の際に見聞したという神界の内容を口述しはじめ、『霊界物語』として刊行する。以後、この書は全81巻83冊に及んだ。
 この事件を契機として王仁三郎は、従来の排外思想を払拭し、大本の教えを世界に布教する目的で、海外の宗教団体との提携交流を推し進め、「神儒仏耶同根」または「万教同根」を主張しはじめた。そして「人類愛善会」を設立し、世界の恒久平和を提言した。
 教団は、満州事変が起こった昭和6年に男性信者の全国組織「昭和青年会」を結成し、軍隊式の団体訓練をはじめた。同9年7月には、同会を核として、憂国の士を集めた「昭和神聖会」を組織して東京九段にある軍人会館で発会式を行い、王仁三郎が統管に就任した。
 政府は、昭和神聖会を「昭和維新」をかかげる軍部の革新派や右翼団体と協力する団体とみるようになり、王仁三郎を軍人等への資金源と見なした。昭和10年12月8日、政府は〝大本をこの世から抹殺する〟として第2次弾圧を開始した。
 教団が主張する「立て替え思想」は、現実の政治経済を革新する思想とし、天皇制を否定するものであるとして、不敬罪および治安維持法違反で王仁三郎以下教団関係者987名が検挙され、61名が起訴された。さらに、教団関係施設の全てが破壊され、教団の土地も安値で買い上げられた。昭和15年、王仁三郎は無期懲役の判決が下されるなど、起訴された全員が有罪となったが、上告中に終戦を迎えて全員無罪となった。
 昭和21年に教団は、宗教法人「愛善苑」として再発足するが、同23年1月19日、王仁三郎は78歳で死去した。同27(1952)年、2代教主すみの死去により、王仁三郎・すみ夫婦の長女出口直(なお)日(ひ)が3代教主を継ぎ、教団名を「大本」に改称した。
 平成2年に3代教主の死去により、直日夫婦の3女出口聖子(きよこ)が4代教主となり、同13年4月、聖子の死去により、養女となっていた聖子の姉・廣瀬麻子(3代教主直日夫婦の2女)の2女紅(くれない)が5代教主に就任した。
 大本より分派した主な教団は、以下のとおりである。
①神道天行居(てんこうきょ)(もと格神教) 大正8(1919)年、友清歓真(よしざね)が開教
②松緑神道大和山(しょうろくしんとうやまとやま) 大正8(1919)年、田沢清四郎が開教
③生長の家         昭和5(1930)年、谷口雅春が開教
④世界救世教        昭和9(1934)年、岡田茂吉が開教
⑤三五(あなない)教     昭和24(1949)年、中野与之助が開教


【教義の概要】
 大本では、祭神を大本皇大神(おほもとすめおほみかみ)とする。この神は、宇宙の根元にして万物生育の源である大元霊・主神(すしん)(真神(しんしん)ともいう)と、その分霊であるすべての神々を総称したものである。
 信者は教主が書写した「神体」と、教団で浄め直した先祖の霊を祀る。神体を祀ることができない場合は「神号幅」と称する掛け軸が与えられる。
教団は、開祖出口なおが霊告によって書いた『お筆先』を王仁三郎が解読・編集した『大本神諭』と、王仁三郎の口述をまとめた『霊界物語』を根本教典とし、そのほか歴代教主夫妻の著述も教説書として用いる。
 教団では、宇宙は非物質的・不可視的世界である霊界(心霊界・幽界ともいう)と物質的・可視的世界である現界(形態界・顕界ともいう)の2つから成り立つとし、しかも現界は霊界の移写(いしゃ)であり、縮図であると主張する。
 教団では、主神は人間が堕落して滅亡寸前の状態である〝末法の世〟を立て替え、立て直して恒久平和の世界(地上天国、みろくの世という)を築く経綸(計画)を実行すると主張する。そのために、神の言葉を伝達して救世の基を開き、霊界と現界を守護する存在として出口なおを、神の愛と智慧を示して万民の罪を贖(あがな)う、霊界と現界を救う存在・救世主神「みろく様」として出口王仁三郎を、それぞれ遣わしたと説いている。
教団では、「大本教法」という規則をもうけ「神は万物普遍の霊であり、人間はその神の教えにもとづいて国家・社会を治め、理想国土を築く主体であり、その神人合一によって無限の権力が発揮される」(趣意)との「教旨」をかかげている。
 大本教法には、霊(神、精神、生命)・力(運動の力、活(はたら)き)・体(物体)を学ぶことも「三大学則」として規定している。
 教団では、霊と体は大元霊である主神から分かれ出た相対的な2大元質であり、すべての存在は霊を主、体を従とする「霊主体従」の原則によって構成されているとする。したがって、人間は霊を中心とし、体を二次的に考えて行動することが原則にかなった生き方であり、これに反して「われよし」(利己主義)・「つよいものがち」(弱肉強食)など、体を中心として霊を従とする「体主霊従」の生き方は人間の苦や社会悪が生ずる原因であると説いている。
 このことから教団は、人類生活の根本原理として、
一、祭(さい)(まつり)…惟神(かんながら)の大道(祭(まつり)を実践すること)
二、教(きょう)(おしえ)…天授(てんじゅ)の真理(大本の教典によって、主神の意志を学ぶこと)
三、慣(かん)(ならわし)…天人道(てんじんどう)の常(人間は神の子とし、主神から授かった良能良質を開発し、活用していくこと)
四、造(ぞう)(なりわい)…適(てき)宜(ぎ)の事務(じむ)(それぞれに適(ふさ)わしい職業に従事すること)
の〝四大綱領〟を説き、人間本来あるべき霊主体従の営みを説いている。
 さらに教団は、人類が四大綱領の本義に基づいて、
一、清潔主義…心身修(しゅう)祓(ばつ)の大道(不淨を浄化すること)
二、楽天主義…天地惟神(かんながら)の大道(天命を楽しむこと)
三、進展主義…社会改善の大道(悪を改善する意欲を燃やし、前進すること)
四、統一主義…上下一致の大道(神を中心とし、万教同根の真理に立って統一をはかること)
との「四大主義」を実践することによって、天国的生活を営むことができるとしている。
 また教団では、人間の死は〝肉体から霊魂が離脱することで、それはまた霊界への復活である〟とし、たとえ肉体が滅しても霊魂は不滅であり、霊魂は死後も意思、感情、知性をそなえて霊的働きをする存在であるとする。したがって、教団では祖霊祭祀を重んじ、「みたま祭り」と総称する死者の復祭、鎮祭、合祀祭など10種の祭祀を行うように信者に指導している。
 信者は、神体に洗い米とお水を供え、朝夕の礼拝をする。朝夕の礼拝は、本部発行の『おほもとのりと』に則って行い「天津(あまつ)祝詞(のりと)」等をとなえる。毎月一回、日を決めて月次祭を行う。これは、過ぎ去った1カ月の神徳への感謝と、これからの1カ月の守護を祈願するものである。

【破折の要点】
◆大本は、開祖・出口なおに艮(うしとら)の金神(こんじん)が神がかったとして立教した教団である。しかし、〝神がかり〟は、精神医学では「憑依妄想」といい、人間の主体性が失われて起こる精神分裂病の一種とされている。一人の人間の妄想から生じた荒唐無稽な宗教に、人々を根元的に救済する力などはない。

◆仏教では、死後の生命は法界に冥伏し、前世の因果を感じながら、縁によってまた生じると説き、因果を無視した霊界や霊魂の存在を否定している。
 教団が「霊主体従」といって、霊界こそが実体界で、目に見える現界は霊界の移写であるとの主張は、因果を無視した教えである。

◆教団では、神意を伝えるものが〝お筆先〟としている。しかし、大正八年五月、「京都日出新聞」に掲載された京都府警の調査報告書によると、大本では、開祖なおの最初の筆先を明治二五年としているが、警察が捜査した際、その現物が出てこなかった。
 その点を王仁三郎に尋問すると、筆先の原稿を作るときに、「年月日と組立等を、開祖なおに尋ね乍ら書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は実際にはありません」と答えている。同教団の根本教典と称する『大本神諭』は、神の言葉などではなく王仁三郎が創作したものである。

◆胎教の必要性を問われた王仁三郎は、「必要やとも。妊娠したらすぐ妊婦の部屋はきれいにして、きれいな絵を掛けておくときれいな子が出来る。(中略)妊娠中に妊婦が火事を見ると本当にアザが出来る。だから妊娠中には火事を見るなと言うのや」(わかりやすい家庭のまつり四六 大本本部祭務部編)と答えている。
 このようにあまりにも因果を無視した発言をする俗人を、聖師と仰ぎ、神と位置付ける大本の教えは低級な教えであり、人々を誑かす邪教である。


 
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