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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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諸宗破折ガイド 新興宗教 神道系 天理教

九 天理教

  創  立  天保9(1838)年10月26日
  創 立 者  中山みき(教祖(おやさま))
  現後継者  中山善司(四代真柱(しんばしら))
  信仰の対象 親神(おやがみ)天理王命(てんりおうのみこと)
        ぢば(親神が人間を創造した場所) 教祖の中山みき
  教 典   『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』
  本部所在地 奈良県天理市三島町271
  信者数   1,758,436
  名称の変遷 転輪王講社(明治13年) 神道天理教会(明治21年) 天理教(明治41年)

【沿革】
 天理教は、中山みきによって幕末に創立された新興宗教の草分けともいうべき教団である。
 中山みきは、寛政10(1797)年4月18日、大和国山辺郡三昧田(さんまいでん)村(現奈良県天理市三昧田町)の前川家の長女として生まれた。13歳のとき、庄屋敷村(現同市三島町)の中山善兵衛に嫁ぎ、19歳で浄土宗の菩提寺より相伝(授戒)をうけ、戒名を授けられた。
 みきが41歳のとき、みき夫婦と長男秀司(しゅうじ)の病気平癒の祈祷を修験者に依頼した。その際、みきに「元の神・実の神」と名のる神がとりつき、「この世のすべての人を救うため、神の住む社(やしろ)として、みきの体をもらいうけたい」、「不承知ならこの家を元もこもないようにしてしまう」と脅迫してきたため、善兵衛はみきをやしろとして差し出した。天理教では、みきが「神のやしろ」と定まった天保9(1838)年10月26日を立教の日としている。
 みきの神懸かり以後、中山家は没落しはじめ、その日の食べ物もない状態になった。その原因は、みきが神より「貧におちきれ」との命令にしたがい、全財産を貧しい人に施したことによるという。教団では、みきの行動はどのような境遇でも心の持ち方一つで〝陽気ぐらし〟ができる、という手本(ひながた)であるとする。
 神懸かりから15年目の嘉永6(1853)年、みきの夫善兵衛が死去した。善兵衛の死後まもなく、みきは17歳の5女こかんに、浪速(現大阪)の街頭で拍子木を打ちながら「南無天理王命」と連呼するように命じた。教団では、これが「においがけ」(布教活動)のはじまりとしている。
 翌7年、みきが57歳のとき、お産のために里帰りした3女はるに「をびや許し」という安産の祈祷をはじめて行った。3女はるが無事に出産したことが評判となり、みきは近隣の妊婦にも依頼によって安産の祈祷を行い、次第に「をびや神様」と称されるようになった。
 みきの「をびや許し」と病気治しで信者が増えはじめ、神懸かってから27年目にあたる元治元(1864)年、大工であった飯(い)降(ぶり)伊(い)蔵(ぞう)等の信徒から寄付と労働奉仕(ひのきしん)によって、親神を祀って修行する場所「つとめ場所」が完成した。
 みきは慶応2(1866)年より『みかぐらうた』を作って「つとめ」の形式を定め、明治2(1869)年から『おふでさき』の執筆を開始し、教義の体系化をすすめた。
 さらに明治8年6月、みきは、屋敷内を入念に掃除させ、まず自らが庭を歩き、足が地面に吸いつき、前後左右に動けなくなった地点に標(しるし)をつけた。みきは、この地点を親神が最初に人間を創造した場所「ぢば」と定め、その印としてすえられた台が「かんろだい」である。
 同13年9月、天理教は、明治政府による取締りをのがれるため、仏教宗派を偽装して転輪王講社を設立し、金剛山地福寺住職を所長にたて、長男秀司が副所長となり布教をしようとした。しかし翌14年、秀司の死去によりこの計画は頓挫し、結局、みき等関係者は官憲に摘発され、みきの逮捕、拘留は同19年1月まで10数回に及んだ。
 その間、すでに講中が20ほど結成されていた教団は、大阪府に数度にわたり教会設立の申請をしたが許可されず、明治20年旧1月16日、みきは90歳で死去した。
 みきの死後、中山眞之亮(しんのすけ)が初代の教団代表者「真柱(しんばしら)」として跡を継いだが、教団の中心者は飯降伊蔵であった。みきにかわって信徒の悩み事・相談事に対する神意を取り次ぐ資格「言上のゆるし」を与えられていた伊蔵は、みき死後の神意の取り次ぎ者「本席」となった。
 教団は明治21年4月、東京府より「神道天理教教会」設置の認可を得、同年、本部を現在地に移転した。同40年、本席・飯降伊蔵は75歳で死去し、翌41年、教団は天理教として独立した。
 大正3年、初代真柱の死去により、11歳で2代真柱となった中山正善(しょうぜん)は、昭和24年に現『天理教教典』を、昭和30年に『稿本天理教教祖伝』を刊行するなど今日の教団の教義の基礎をつくった。
 昭和42年、3代真柱に就任した中山善衛(ぜんえ)は、昭和51年の教祖90年祭、同61年の100年祭を行っている。
 現4代真柱は、善衛の長男善司(ぜんじ)で、平成10年4月26日に真柱を継承した。教団ではみきを教祖(おやさま)と称し、それ以後の代表者は真柱(しんばしら)と呼び、今日に至るまで中山家の直系の男子によって教団が継承されている。
 なお、天理教から分派・独立したおもな教団は以下である。
 大道(だいどう)教=明治33(1900)年、飯田岩治郎が開教
 ほんみち=大正11(1922)年、大西愛治郎が開教
 太道(たいどう)教=昭和15(1940)年、中村しげが開教
 日の本神誠講(しんせいこう)=昭和16(1941)年、岡本ツエが開教
 世界心道教=昭和19(1944)年、会田(あいだ)ヒデが開教
 日月(ひかわ)神一条=昭和22(1947)年、嘉納寅三が開教



【教義の概要】
 教団では、信仰の対象を「目標(めど)」と称し、「ぢば・親神(おやがみ)天理王命(てんりおうのみこと)・教祖(おやさま)中山みき」の3つを挙げている。
「ぢば」は、親神が人間創造の際に最初に人間を宿した場所であり、親神が鎮(しず)まっている親里であるとし、天理王命(てんりおうのみこと)と名付けられた場所である。教団本部(天理市三島町)の神殿中央には、このぢばの目印として「かんろだい」がすえられ、信仰の対象としている。
 親神天理王命は、人間をはじめ世界を創造した根元の神とする。この神は、教祖中山みきの体をかりてこの世に現れ、世界中の人間を一切の苦から解放して喜びづくめの生活(陽気ぐらし)へと導き、守護すると説いている。また教祖みきは、死後もその命をぢばにとどめて永遠に存在しているとし、親神による人類救済はこのぢばを中心として行われるとする。
 なお、教団の教会では天理王命の目標として神鏡(しんきょう)を、教祖の目標として御幣(ごへい)を祀り、信者は「神実(かんざね)」と呼ばれる小さな神鏡(しんきょう)を祀る。
 天理教では、『みかぐらうた』、『おふでさき』、『おさしづ』を三原典とする。『みかぐらうた』は、みきがつくった数え歌で、人間が陽気ぐらしを実現するための方法を示しているとする。『おふでさき』は、みきが親神の教えの内容を歌形式で記したもので、明治2年から15年まで1,711首が記されている。『おさしづ』は、教祖みきや本席・飯降伊蔵が親神の言葉として述べた内容を、側近信者が筆記したものである。そのうち、みきのおさしづは明治20年に死去する直前の20日間だけのもので、大部分は明治40年に死去するまでの伊蔵によるものである。この三原典に基づいて昭和24年に編集したものが『天理教教典』である。
 教団は、天理教の教えは「たすけ一条の道である」と説く。親神は、人間を助けたいとの親心で天理教を開いたとし、子である人間は親神の心を心として生きることが重要で、親神の思いにひたすら添うことが道であるとする。そして、親神は人間を助ける方法として「つとめ」や「さづけ」を示し、陽気ぐらしの世界をこの地上に実現するという。
 「つとめ」は、「本づとめ」と「朝夕のつとめ」の2種類がある。本づとめは、ぢば・かんろだいを囲んで行うもので、「かぐらづとめ」と「ておどり」を勤める。かぐらづとめは、男女各5人がかぐら面をつけ、鳴物(なりもの)の伴奏によってみかぐらうたを歌い、それに合わせて踊るものである。ておどりは、黒い紋付を着た男女各3人が鳴物と歌に合わせ行う手振りをいう。朝夕のつとめは、信者が自宅の目標の前で、手振りだけか拍子木によって朝と夕に行う勤めである。教団では、この本づとめにより心が澄み切り、親神と人間がともに陽気がみなぎり、守護がゆきわたり全世界を陽気ぐらしの世界に立て替えていくと主張している。
 「さづけ」は、さづけの理を取り次ぐことで親神の守護が得られるとし、病気なおしの手段である。教祖みきと本席・飯降伊蔵が存命中は、米粒や清水に白砂糖を入れたものなど種々のさづけがあったが、本席の死後は「あしきはらいのさづけ」のみである。このさづけは、決まった手振りをしながら「あしきを払うて助けたまえ、てんりおうのみこと…」と三遍唱えて3回撫で、これを3回繰り返すものである。
 なお、教団では存命の教祖が着したと称する赤(あか)衣(き)を切ったものを「おまもり」として、妊婦にぢばに供えた洗米を「安産の許し」として信者に下付している。
 天理教では、親神が人間を創造したという「元(もと)初(はじ)まりの話」を説く。
 この話は『泥海古記(どろうみこうき)』と呼ばれ、立教44年目の明治14年に、みきが教団の側近信者に「古記を作れ」と命じ、みきが口述した内容をまとめた神話である。
 この話では、「月日の神(天理王命の異称)は、まず泥海に住んでいた『ぎ魚』と『白ぐつな』を夫婦の雛型として口に入れ、さらに鯱(しゃち)、亀、うなぎ、かれいなどを道具として食し、その上にどじょうを食べて『たね』として人間を産んだ」(趣意)と述べられ、月日の神が子を宿した場所が、中山家の敷地内の「ぢば」であるという。このぢばは、すべての人間の生まれ故郷と教え、天理市の本部へ参拝することを「お地場へ帰る」とか「おぢばがえり」といい、信徒の重要な修行とする。
 天理教では、人間の身体は親神からの「かりもの」であり、心だけが人間のものであるとする。人間は、日ごろ、意識しないうちに心に「をしい(惜)、ほしい(欲)、にくい(憎)、かわい(可愛い)、うらみ(怨)、はらだち(怒)、よく(貪)、こうまん(慢)」の八つの「ほこり」を積んでいるとし、神は人間がこのほこりを積み重ねると、その心得違いを改めさせようと病気、不幸、災難を人間に示すとする。そこで、人間は、親神の教えを「ほうき」として、常に心を掃除するようにと天理教は教え、教えの理が分かるにつれ大難から小難へ、小難から無難へ導かれ、陽気づとめへとすすむと説く。
 教団では、教祖みきが神より「貧におちきれ」との命令にしたがって全財産を貧しい人に施したように、みきの行動はどのような境遇でも心の持ち方一つで〝陽気ぐらし〟ができるという手本(ひながた)であると教える。信者は欲の心を離れて、欲をおこす原因となる金銭を親神にお供え(おつくし)し、自らのために働く日常生活を離れて教会に行き(はこび)、人のための奉仕「ひのきしん」を実践の徳目としている。

【破折の要点】
◆天理教でいう万物創造の親神は、天保9(1838)年10月、教祖みきに神懸かるまで一体何をしていたのであろうか。親神の教えによってはじめて人類が救われるとするならば、それ以前の人類は救われないことになる。所詮、万物創造の親神は、中山みきが神憑りという精神医学でいう妄想の産物であり、因行が明らかでない外道の神である。

◆天理教は、元の理と称して、親神が「どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた」(天理教教典27)と述べている。しかし、「どじょうが人間のたね」などというのはあまりにも非科学的な教えである。このような話がもととなった宗教は人間を不幸に導く邪教である。

◆天理教では、人間の肉体は親神から借りたもので、心だけが人間所有のものとする。そして、親神の心を知ればどのような境遇でも心の持ち方一つで〝陽気ぐらし〟ができると主張する。しかし、心の持ち方一つで真の幸福など得られるはずもない。

◆人間の清く正しい本来の心に八つの埃がつき、その埃がすべての病気や災害などの不幸の原因であると主張する。しかし、8つの埃のうちの「よく」ということを挙げれば、病気を治したいということも欲であり、また人間が完全に欲をなくすことなどは不可能なことである。天理教は、人間の本質に暗い外道の教えである。


 
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