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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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諸宗破折ガイド 新興宗教 諸教系 パーフェクト・リバティ教団



一 パーフェクト・リバティ教団(PL)


  創 立    昭和21年9月
  創始者    御木(みき)徳一(とくはる)(初代)
  現後継者   御木(みき)貴日止(たかひ と )(3代目)
  信仰の対象  大元霊(みおやおおかみ)、教神(幽祖(かくりおや)=金田徳光(かなだ とくみつ)、初代教祖(おしえおや)=御木徳一(とくはる)、2代教祖(おしえおや) =御木徳近(とくちか)、祖霊(信者の先祖)
  教 典    『PL教典』『PL処世訓二十一箇条』
  本部所在地  大阪府富田林市新堂2172―1
  信者数    1,117,408
  名称の変遷  御嶽(みたけ)教徳光大教会本部(大正14年) 扶桑(ふそう)教一等直轄人道徳光教会(昭和3年) 扶桑教ひとのみち教団(昭和6年) PLC(パーマネント・リバティ・クラブ 昭和21年2月) PL教団(昭和21年9月) パーフェクト・リバティー(昭和42年)パーフェクト・リバティー教団(昭和49年)

【沿革】
 PL教団は、御木徳近(とくちか)が「人生は芸術なり」等の処世訓を教義として創立した神道系の教団である。教団名の「PL」は完全なる自由を意味している。
 また、教団では徳近の父御木徳一(とくはる)を初代教祖(おしえおや)とし、徳一(とくはる)が御嶽(みたけ)教徳光大教会の教祖金田徳光(かなだ とくみつ)の弟子であったことから、金田を幽祖(かくりおや)としている。

〈初代教祖御木徳一〉
 御木徳一は明治4年、伊予国(愛媛県)松山に生まれ、本名を長次郎(ちょうじろう)といった。8歳のときに黄檗(おうばく)宗安城寺で得度して長正と(ちょうしょう)改名し、10数年間、各地の禅寺を遍歴して、同26年末に同県荏原(えばら)村の安楽寺の住職になった。翌年、同村の森納(おさむ)と結婚し、同33年4月に皦正(あきさだ)(徳近(とくちか))が生まれている。
 同35年、安城寺の兼任住職となった長正は、安城寺の庫裡を改築して工場とし、織物製造や農器具販売などをはじめたが、いずれも失敗した。
 同43年に還俗した長正は、翌年、仕事を求めて大阪阿倍野に移ったが、貧窮生活の最中、妻に先立たれ、自身も脚気(かっけ)と喘息に悩まされるようになった。そのため長正は、病気治しで評判だった金田(かなだ)徳光を訪ねた。
 金田はのちに「御嶽(みたけ)教徳光大教会」を設立するが、当時は、神道御嶽(みたけ)教の教師をしながら、自ら編(あ)み出した「教訓十八箇条」を説くかたわら、病気や苦しみを本人に代わって引き受ける「お振替(ふりかえ)」や吉凶の占いなどを行っていた。
 この「お振替」に関心をもった長正は、その修法の教授を願ったが、金田からは「本人今は誠なれども5年ののちに、これを食い物にする」と断られた。
そのころ長正は、友人の勧めで禅僧に復帰し大阪市内の寺院で生活していたが、大正4年12月に再び還俗した。
 翌年四月、御嶽(みたけ)教徳光大教会を訪れた長正は、長男皦正とともに金田に弟子入りし、長正は「徳一」、皦正は「徳近」との名前を受けた。徳一は話術によって一時は教団内で信望を得たが、虚言癖のため次第に疎まれるようになっていった。
 同8年1月に金田(かなだ)が病死すると、徳一は風紀問題を起こしたため教団から追放されたが、懇意にしていた信徒の家で生活し、金田から授かったとする「お振替」などの霊験を用いて、次第に信徒を獲得していった。
 この頃から徳一は、金田から「教訓十八箇条に三箇条を加え、教えを完成する人物が現れると自分が遺言を受けた」と主張するようになり、同13年、残りの三箇条を自身が天から授かったとし、自分こそ金田(かなだ)の正統な後継者であり完成者であると位置づけた。
 こうして徳一は、同年10月、自分を追放した徳光大教会に対抗して「御嶽(みたけ)教徳光大教会本部」を結成し、従来の徳光教会時代の教義や祭礼に加え、新たに創作した二一箇条の人生訓などをもとに布教を開始した。また昭和3年、教団名を「御嶽(み たけ)教徳光大教会本部」から「扶桑教人道(じんどう)徳光教会」、さらに同6年に「扶桑教ひとのみち教団」と変更した。
 昭和11年9月6日、徳一は教祖の地位を徳近に譲り、同月28日、徳一は少女に対する強姦猥褻(ごうかんわいせつ)容疑によって逮捕された。その半年後、「天照太神は太陽であり、天皇といえどもその心根を正すために神から苦痛が与えられる」との教団の教義が不敬罪に当たるという理由で、徳近以下幹部14名が治安警察法違反によって検挙され、教団は解散処分となった。これを「ひとのみち事件」という。
 教団は同15年、大阪地裁の不敬罪有罪判決に対して控訴したが、同19年に有罪が確定した。その間、徳一は同13年7月6日、67歳で死亡した。

〈「ひとのみち」から「PL」へ〉
 ひとのみち事件以後、解散命令、教祖徳一の死、裁判の長期化などが原因となり、教団内部においてさまざまな意見対立が起こった。やがて同会を離れ、「新世文化研究所」「神道徳光教会本部」などを新たに設立する有力幹部たちも出た。
 第2代徳近は「占領軍の宗教政策が確定するまでは、永遠の自由を標榜した思想運動を展開する」とし、昭和21年2月、仙台の会合で「人生は芸術なり」ではじまる「PL宣言」を発表し「パーマネント・リバティ・クラブ」を発足した。さらに同年9月、徳近は佐賀県鳥栖市の妻の実家でPL(パーフェクト・リバティー=完全な自由)教団を立教した。
 翌年9月、徳近は立教一周年記念祭において、徳一の人生訓に代わる神訓(しんくん)として「人生は芸術である」からはじまる「PL処世訓」二一箇条を制定した。
 教団は同24年、鳥栖市から静岡県清水市に本部神殿を移して「清水仮本部」と称した。徳近は、当時、流行していた社交ダンスに注目して「PL教団ダンス規則」を制定し、ダンスを通じて男女・目上目下の道を体得させようとした。しかし「神の前でダンスを踊る宗教」と、世間から批判を浴びた。
 同26年8月、教団は「世界救世教」「立正佼成会」「生長の家」等と協力し、新日本宗教団体連合会(新宗連)を発足させている。
 同27年、教団は宗教都市づくりを目指して、清水市より大阪府富田林市へ本部の移転を決定した。翌年には富田林において、初代教祖の祥月命日に打ち上げ花火をはじめて行った。この花火大会は「PL花火芸術」と称し、現在も行われている。
 教団は、同29年に大本庁を設置し、翌年3月に仮本殿を完成させ、4月にはPL学園高等学校を開設した。このほか、同31年にはPL病院の前身である医療法人宝生病院を、翌32年にはゴルフ場を開設している。
 その後、3代目教祖の座をめぐり内紛が起こった。徳近夫婦には実子がなく、後継者に徳近の甥・御木徳日止(とくひと)を指名していたが、養子にした妻の甥・貴(たか)日止(ひと)を任命し、徳日止を降格させた。これによって徳日止は、昭和55年5月、PL教団から分派して「人道教団」を結成した。
 昭和58年2月に徳近が82歳で死去し、貴日止が3代目の教祖に就任した。

【教義の概要】
 PL教団では、大元霊(みおやおおかみ)、教神、祖霊の3つを信仰対象とし、本部・正殿に祀っている。
 大元霊とは「一切の根源であり、宇宙を統一した神」と規定し、これを祀るに当たっては徳近が造った菊型の日章紋(にっしょうもん)を象徴として用いる。教神とは、幽祖(かくりおや)金田徳光、初代教祖御木(みき)徳一(とくはる)、2代教祖・御木徳近の3霊をいう。祖霊とは、全信徒各家先祖の霊を合祀(ごうし)したもので「大本庁神霊」ともいっている。
 信徒の家庭では、神と一体の境地である教祖が魂入れをした「神霊(みたま)」を祀る。この「神霊」には、新入信者に与えられる「新友神霊(しんゆうしんれい)」と、信仰が進んだ者に与えられる「教徒神霊(きょうとしんれい)」がある。
 教団では、人間の生命は大元霊の分霊であり、人はすべて神の子であるとの自覚を持ち、各自の個性を自由に表現し、自らの幸福と世界人類の福祉と平和に貢献していく道を示すことを目的としている。
 その目的達成のために教団では、2代教祖・徳近が昭和22年9月29日に神から受けたとする「PL処世訓(おおしえ)二十一箇条」を説いている。この処世訓は、第一条の「人生は芸術である」が中心であり、ほかには「人の一生は自己表現である」「日の如く明らかに生きよ」など20条目がある。
 この「人生は芸術である」とは、自分の気持ちや個性を、物事をとおして表現することをいう。この表現方法は、音楽・絵画・文芸など、一般に芸術家と称される人たちに限定されるものではなく、むしろ人間生活の一切が芸術そのものであるとされる。
 教団では、さらに「人間は神から森羅万象を素材として、これを生かし、調和せしめ、芸術する使命を与えられており、各人がその芸術表現をとおして自我を離れ、神から与えられた個性を自由に発揮してこそ、楽しく生きることができ、またそれが実現した境地を神人合一、パーフェクトリバティー(完全なる自由・真の自由)と呼ぶ」ともいう。
 教団独自の教えに神示(みしらせ)・神宣(みおしえ)・身代(みがわ)り・祖遂断(おやしきり)・遂断(しきり)がある。神示(みしらせ)とは、個々の「我」や「個癖(くせ)」等の自己表現のゆがみを矯正するために、神が警告として人間に与える苦痛・災難・病気・けがなどの苦悩をいう。神宣(みおしえ)とは、我や心の癖等、神示の原因を教える神の言葉のことで、これは教祖(おしえおや)と祐祖(ゆうそ)によって授けられるとする。身代りは、信者や教師に苦痛、突発的な苦難などが起こったとき、教祖や祐祖が本人に代わって引き受けることをいう。祖遂断は、昭和33年5月に徳近が提唱したもので、「教祖が神に誓って制定したすべての神事」(PL信仰生活心得15・趣意)としている。そして全人類は「お・や・し・き・り」と唱えることにより、神ならびに教神の余徳と教祖の力が授けられ、苦痛や災難などから免れるとされる。(PL30年史62)遂断(しきり)とは、信者が物事を行う前に固く決意し、必ずなし遂げることを神に誓うとともに加護を祈ることである。
 会員の日々の勤めとして、神霊に向かって朝(あさ)詣(まいり)と夕詣を行う。その際、声に出して「お・や・し・き・り」と繰り返す。
 さらに、教団が定めている毎月1日の「平和の日」、11日の「先祖の日」、21日の「感謝の日」に教会へいく。これを「一の日詣」と称している。
 また会員は、必ず班に所属して「教座(きょうざ)」と呼ばれる座談会に出席し、年齢別・職業別・性別などで分けられる錬成会や講習会に参加して、教団の教えを学習する。
 会員は、神に何かを願うときやお礼をするとき、「宝生袋」に任意の金員を入れ献金し、教祖(おしえおや)の祖遂断(おやしきり)によって利益が与えられるとする。
 また教団では、信者から金員を五年間無利子で借り受ける「悟加富(ごかふ)」の制度を提唱し、これに参加すると、一切の不幸のもとである物質欲や金銭欲がなくなり、経済観念が良くなるといっている。

【破折の要点】
◆曖昧な神と礼拝対象物
 教団では、宇宙の根本神を大元霊(みおやおおかみ)としているが、この神の実体や所在、教祖との優劣については明らかにされていない。
 礼拝の対象物が極めて曖昧なのに対し、「教祖によって世の人々は真の救いを得ることができるようになった」(PL30年史23・趣意)というように、教祖(おしえおや)の絶対性だけが強調されている。しかしその教祖自体、普遍的な指針を打ち出すこともなく、無節操にも時代状況に合わせて教義や教団名称、活動方針などが頻繁に変えられている。
 徳近は、近年になって日章マークを礼拝対象物にしたが、その根拠ははっきりしない。徳近は、「私は自分で造形した神を自分で決定した礼拝様式で私自身が拝みます………これは我ながら見事なものだと思っています」(心を燃やす46頁)といっているように、何から何まで教祖の思いつきがそのまま教義になっている。
 礼拝物について教団のある幹部は、「端的にいっちゃえばですね、礼拝をするには、何か対象がなければ格好がつきませんでしょう。それで、この形を創ったので………だから何であってもよかったわけで、古ゾウリでもよし、ちびたゲタでもよかったんです」(新宗教の世界96)などといっている。PL教団では、信仰のうえで最も大切であるはずの礼拝対象物(御神体)ですら、このようにいい加減なものなのである。

◆『身代り』の邪義
 PL教団では、「身代り」の神事によって、信者たちの病気や惨事をすべて教祖(おしえおや)が自身に振り替えて解決するという。しかし、この「身代り」はPL教団独自のものではなく、すでにひとのみちや徳光教で「お振替(ふりかえ)」と称して行っていたものであり、教団では当初「転象(てんしょう)」と呼んでいた。ひとのみち教団発行の『信仰の本道』には、「をしえおやは悩みを一身に引受けることによって、毎月20日頃から身体が役に立たないやうになってくる。人の苦しみを現実に自分の肉体に引取られるから、細胞組織の完全な身体ではなくなってくるのであります」(255)とまことしやかに述べているが、これは現在の医学ではまったく通用しないでまかせである。仮に教祖にそのような身代りができるとするならば、今日、100万人を超すといわれる信者たちの病気や罪業を背負って、教祖は常に病弱で苦悩の多い境遇でなければならず、生きていることすら不思議である。教団では、「もちろん、おしえおやはあくまで人間であって神ではありません」(PL30年史23)といっているが、生身の人間には常識的に考えて、このような身代りなどできるはずがないのである。
 また、「お振替」によって金田に喘息を治してもらったという徳一でさえも、終生他人に隠れて喘息の薬を飲み続けていたとの証言もある。
 徳近自身、「科学的根拠の無いような宗教は其れ自体虚偽」(日訓241信)といっているが、まさに「身代り」を信者に強要し布教の中心に据えるPL教団こそ、虚偽そのものといわなければならない。

◆『神示』の矛盾
 PL教団では「神示(みしらせ)」なるものを説き、人の「我」や個癖(くせ)が原因となって引き起こされる自己表現のひずみが病気・不幸・災難などの形となって現れるとし、「心の持ち方しだいで幸・不幸が決まる」といっている。
 しかし、その理論ならば、生まれながらにして障害や病気を持ったり貧困に苦しむ人の存在について説明することはできない。またなかには、不遇にも事故や災害で命を落とす人もいるのが現実であり、これも神の「神示(みしらせ)」というならば、PLの神は、無慈悲で無責任極まりない神といえる。

◆低俗な処世訓
 教団で教義の中心に置いているのは『PL処世訓』であり、その根本は「人生は芸術である」との条目である。教団では、「自我を離れ、自己を顕現していくところに人生の真義がある」(宗教総覧184)としているが、煩悩の多い人間は、生命の浄化こそ大事であって、「自我を離れること」などは人間性を無視した教条であり、さらに「自己を顕現する」だけで真実の人生の幸福が得られるわけがない。したがって、教団でいうこれらの言葉は極めて抽象的なもので、またその他の条目についても、ありきたりの言葉を羅列したものに過ぎない。教祖の悟りと称するものがこの程度であるところに、教団の教義の低俗さといい加減さがみえる。


 
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