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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 神道と民間信仰・俗信 民間信仰

二 民間信仰

 1 稲荷信仰

【概説】
 稲荷信仰は、伏見稲荷大社(京都府)を中心とする神道的形態の信仰が主流となっている。この伏見稲荷大社は、渡来人の秦氏が和銅4(711)年、宇迦之御魂神を主神とする三神を伏見の地に祀ったことにはじまるとされる。主神は、『古事記』や『日本書紀』に記された神話神で「食物の霊」を意味し、とりわけ稲の霊・農耕の神として崇められた。稲荷の呼称は、「稲成り」から生じ、また「稲を荷なう」に由来するという。
 この信仰は奈良時代、秦氏の勢力の拡大とともに広まっていった。さらに平安時代には、神仏習合の思想により、教王護国寺(東寺)の鎮守となって真言密教と融合し、やがて朝廷の鎮守社として信仰されるとともに民間にも広まりをみせた。
 その後、この神仏習合の思想から、各地の仏教寺院にも稲荷社を祀るものが現れた。それらには、豊川稲荷(愛知県)や最上稲荷(岡山県)などがある。豊川稲荷は、曹洞宗妙厳寺(本尊・千手観音)が、仏教で説く荼枳尼天を稲荷神と同じであるとして祀り、最上稲荷も日蓮宗系の妙教寺(本尊・最上位経王大菩薩)が稲荷を祀って、ともに本来の寺院名よりも稲荷のほうが有名になったものである。
 一方、俗信としての稲荷信仰は、現世利益を祈願する「おいなりさん」として民間に広く受け入れられていった。特に江戸時代以降は、庶民によって田畑・山・川・屋敷などあらゆるところに稲荷の祠が造られ、稲荷の意義づけも、もとの食物・農業の神から、屋敷神や衣食住・商工業の繁栄などを祈願する神へと、多岐に変化して現在に至っている。
 このように稲荷信仰の形態はさまざまであるが、神道的なものがその主流であることは変わらず、現在では全国の神社数の3分の1に当たる約3万余社の稲荷神社があるとされる。
 この稲荷信仰では、稲荷大社が創建されたという2月の「初午」を、商売繁盛の祭りとするところが多い。
 また、稲荷信仰に付きもののキツネは、神そのものではなく、稲荷神の使いとして位置付けられている。キツネを神の使いとする理由は、「山の神」が春に山を下って「田の神」となり、秋には山へ戻るとの考えがあるが、これにキツネが春に人里に姿を現わして秋には子育てのために山へ戻ることをダブらせたとの説がある。このほかにも宇迦之御魂神の別名・御饌津神の「ケツ」と、キツネの古名の「ケツ」が同じであるとの語呂合わせ説、さらにキツネは人間にとりついて「キツネ憑き」となったり、人を誑かすことから神の使いとして恐れ崇めた説などがある。
 神社によっては、わずかではあるが稲荷神を祭神とするのではなく、このキツネを神として祀るところもある。

【破折の要点】
◆神道的形態の伏見稲荷などで祀る宇迦之御魂神は、神話による神で、そのもととなる『古事記』には「須佐之男の子」とあり、『日本書紀』には「伊邪那岐・伊邪那美の二神の子」とあって、両書の内容が大きく矛盾している。

◆仏教的形態の稲荷信仰は、寺院が守護神として稲荷神を取り入れたことからはじまり、全国に散在している姿は、もともとの仏教寺院の本尊と、その守護神である稲荷神が混乱し、主従が顛倒している。

◆稲荷神社で行う「初午」は、もとは「田の神」を迎える祭りとしてはじまったものであるが、いつの間にか「商売繁盛」に変節している。まさに神社の商業主義にほかならない。

◆キツネを拝むことは、自らが畜生界に同ずることになり、大きな罪障を積むことになる。

 2 八幡信仰

【概説】
 八幡信仰は、八幡神・応神天皇を祭神として祀る信仰であり、その八幡社は応神天皇を主祭神とし、生母の神功皇后をはじめとする神々を祀っている。第15代応神天皇は、14代仲哀天皇と神功皇后の皇太子で、『古事記』には「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」、『日本書紀』では「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」と記されている。
 八幡信仰の発祥地は大分県の宇佐八幡宮とされている。これは第29代欽明天皇(539~571)の代、「この地に神が現れて、われは誉田天皇広幡八幡麿也と告げた」(帝王編年記録)とするところから創祀されたものである。はじめは北九州を拠点とした宇佐氏の氏神で、穀霊神、銅産神として信仰されていた。この宇佐の地は、もともと大和朝廷にとって九州経営の拠点であり、飛鳥時代から朝廷の崇敬を受けていた地域でもあった。
 その後、天平17(745)年、奈良東大寺大仏造立の際、宇佐の禰宜尼が大和の地に入り、八幡神より事業援助の託宣があったと告げ、やがて大仏が無事造立され、このことが八幡信仰の中央進出のきっかけとなった。
 そして神護景雲3(769)年、道鏡の皇位奪取計画がおこり、これに対して朝廷は、和気清麻呂を宇佐八幡に遣わして託宣を受け、道鏡の野望を阻止した。これを契機に八幡神は皇室の守護神とされるようになり、天応元(781)年には朝廷より大菩薩の号が与えられ、僧形の神像が造られるなど神仏混合した信仰が盛んになっていった。そしてこれ以後、東大寺、薬師寺、東寺等の多くの仏教寺院に鎮守社として勧請されるようになったり、さらに平安時代になると貞観2(860)年には、京都に石清水八幡宮が勧請され、都の八幡信仰の拠点となった。
 11世紀末には、朝廷が定めた22社の内、伊勢神宮に次ぐ第2の地位を得て皇祖神として位置づけられ、さらにまた源義家が石清水八幡宮で元服して「八幡太郎」と称したことから、源氏の氏神とされるようになり、平安末期には鎌倉に鶴岡八幡宮が勧請された。
 鎌倉時代になると、源頼朝が鶴岡八幡宮を鎌倉幕府の鎮守として格別に仰いだ。さらにそれ以降、源氏の氏神としての八幡神は、広く武家の守護神として信仰されるようになり、やがて荘園の鎮守神として全国に広まっていった。
 またこの信仰は、戦国、江戸、明治、大正、昭和と戦争があるたびに武運長久を祈願する信仰として広まり、現在、八幡社は全国に25,000社を数えるに至っている。

【破折の要点】
◆神道における八幡神の本体とされる品陀和気命(ほむだわけのみこと)(誉田別尊(ほむたわけのみこと))は、あくまで神話伝説上の神でしかなく、武運長久の神として崇められている。
 しかし、仏教においては日蓮大聖人が、
 「天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり」(日眼女釈迦仏供養事 新編1351)
と説かれるように、八幡大菩薩は釈尊の垂迹であり、仏が衆生を導くために権りに八幡の姿を示した菩薩である。また、
 「八幡大菩薩は正直の頂にやどり給ふ」(法門申さるべき様の事 新編434)
と示されているように、八幡大菩薩は本尊として礼拝の対象とすべきものではなく、正法を信仰する者、すなわち正直の者を護る神と位置付けられている。したがって、八幡大菩薩を本尊とすることは、本地である仏をないがしろにする本末転倒した信仰となり、利益どころか罰を受けることとなるのである。

 3 天神信仰

【概説】
 天神信仰は、もともと中国の「天神地祇」の思想から起こった信仰で、農耕に欠かせない雨や水の神である雷神を崇めることを主とし、これを水神・農耕神として、加護を祈るものであった。
 しかし日本神道での天神信仰は、この農耕の神である雷神への信仰と、菅原道真(845~903)の怨念に対する御霊信仰とを結び付けてできたもので、北野天満宮(京都府)がその中心となっている。御霊とは、政治的に失脚させられるなどの怨念をもって死を遂げた人の霊が、人々にさまざまな災厄をもたらすとして恐れられたもので、早良親王・伊予親王などがあり、のちに道真もこれに加えられた。平安時代には、これらを鎮めるための「御霊会」が盛んに行われていたという。
 菅原道真は平安前期、代々にわたる学者の家柄に生まれ、幼い頃から学問に秀でていたところから、のちに宇多天皇に重く用いられ、幼くして即位した醍醐天皇の右大臣となるが、左大臣・藤原時平の策謀により、昌泰4(901)年に太宰府(福岡県)へ左遷され、2年後に無念の生涯を終えた。道真の死後まもなく、延喜5(905)年には、太宰府に天満宮の原形が設けられたとされる。
 この道真の没後より京都では天変地異が続き、また道真を排斥した藤原時平の早死をはじめとして藤原一門に災難が相次ぎ、さらに朝廷でも皇太子の保明親王が21歳で亡くなったことから、不遇の死を遂げた道真の怨霊が災疫をもたらしたとの風評が世間に広まった。これに対して朝廷は、道真の名誉を回復したうえで御霊として祀り、道真の怨霊を鎮めようとした。しかし災厄は止まず、前の皇太子に続いて次の皇太子も幼くして亡くなり、また宮中へ落雷が直撃して醍醐天皇の側近が死亡したことなどから、道真の御霊は雷と結び付けられてますます畏怖されるようになり、鎮魂の儀礼が続けられていた。
 現在のような天神信仰が成立するのは、道真が没して半世紀ほどのち、民間信仰の巫女や、近江国の神官の童子への託宣があったとして、古来、雷神を祀って祈雨を行っていた地である北野に、北野天満宮の元となる社が建立されてからといわれている。
天神信仰では、道真を「天満天神」「天満大自在天神」「太政威徳天」などとして祀るが、これは仏教各宗の教義や、天の神を意味する天神と道真の御霊とが神仏習合した呼称である。また、人々の道真への畏怖の念が落雷で象徴されたことから、雷神と結びつけて「火雷天神」とも称している。
 平安中期には、北野天満宮が菅原家の氏神となり、道真を学問の神とする理由づけが生じた。これは鎌倉期を経て、現代にまで継続している。さらに民間では、学問のほかに和歌・書道などの向上を祈る神とされ、また江戸時代には、寺子屋で天神講が修されるなど、庶民に信仰が広まっていった。
 このように天神信仰は、天の神である雷神と御霊信仰とが合体して生まれ、さらに、道真の書道・文学に対する勝れた才能から学芸・学問の神として崇められるようになり、現代では「学業・受験・祈雨・除災・防火」など多岐の利益を願う信仰に変化している。この天神信仰の社である「天満宮」は全国に約10,000社あるとされ、稲荷・八幡と並んで民間信仰の主流となっている。

【破折の要点】
◆菅原道真が天満天神という雷神になったとするのは後代の作り話であり、道真は神であるどころか、自らの不遇を解決することすらできずに、一生を終えた人物である。ましてや、道真の怨念を神として崇めることは道理に合わないばかりか、かえって感応道交の理によって、道真の怨念の悪影響を受けることになるのである。

◆天満宮では道真が学問に長じていたことをもって、学力の向上や合格祈願を売り物にしているが、仮に天満宮に詣でた者がすべて合格するならば、まじめに勉学する者はいなくなるであろう。まさにこのような信仰は、結果頼みの宗教であり、ひいては亡国を招く教えというべきである。

 4 観音信仰

【概説】
 信仰対象の「観音」は、『法華経』の観世音菩薩普門品に登場する「観世音菩薩」のことである。
 観世音菩薩は、『観無量寿経』では阿弥陀の脇士として説かれ、真言密教では一菩薩として曼陀羅に描かれているが、その本身は『法華経』の功徳の様相を示した菩薩である。
 すなわち、法華経の観世音菩薩普門品には「観世音菩薩が信仰者の七難を救い、貪・瞋・癡の三毒を除き、楽と長寿を求める二求の両願を満たし、機根に応じて三十三身を現じて、それぞれに法を説き解脱させる(趣意)」と観世音菩薩の徳が説かれている。
 本来、観世音とは「世間の声(音)を観る」ということであり、衆生の苦しみの姿を見て、慈悲を垂れる菩薩とされているが、これがいつしか「世情に通じて商売を繁盛させる菩薩」に転用されて広く信仰されるようになった。また、この利益が強調されることで、元来、『法華経』の一部である観世音菩薩普門品が、特別に『観音経』として用いられるようになった。
 観音信仰は、日本のみならずアジア各国でも盛んに行われ、中国では法華経の漢訳直後から独立して信仰の対象となり、チベットではダライ・ラマがその化身であると信じられている。
 日本でも仏教伝来の当初より、観音菩薩が三十三身を現ずるところから種々の変化観音が生まれた。 この変化観音には、
 十一面観音…人々のさまざまな苦難に対応するためすべての方向に顔を向けるという。
 千手観音…千本の手は多くの人々に救済の手を差し伸べる慈悲を表すという。
 馬頭観音…衆生の無知や煩悩を断じ諸悪を破壊消滅させるという。
 准胝観音…子授けに利益があるという。
 不空羂索観音…苦悩する人々をもらさず(不空)救いとるという。
 如意輪観音…意の如く財宝と福徳をもたらすという。
などがあり、これらに対する基本形が聖(正)観音と通称されている。
 さらにこれらを組み合わせた六観音、七観音、三十三身の数に合わせた三十三観音、民間の安産祈子と結びついた子安観音、キリスト教禁制時代に観音にマリアの姿を託したマリア観音などさまざまな観音信仰が生まれている。また今日まで三十三身変化に合わせて、西国三十三カ所や坂東三十三カ所巡礼なども行われている。

【破折の要点】
◆観音菩薩が三十三身を現じて衆生を教化することは、仏の化導を助けるもので、観音信仰を勧めるものではない。したがって、観音菩薩を独立して信仰対象とすることは仏の真意からはずれた本末転倒の姿である。また、観世音菩薩普門品を独立させて『観音経』とすることも、法華経の主旨に反するものである。

◆観音菩薩のはたらきは、本来「法華経最為第一」の宣揚であり、観音信仰と称して法華経をないがしろにし、観音菩薩のみを崇めても何の利益もないどころか、かえって仏法違背の罪を作るのである。

◆近年では、「○○観音」との名称で、各地に巨大な観音像を建てられているが、これらは従来の観音信仰に便乗して建てられた「観音菩薩」とは名ばかりの見せ物であり、客寄せのための産物にすぎない。

 5 薬師信仰

【概説】
 薬師信仰の本尊である薬師如来は、釈尊の説かれた方等部の『薬師経』に登場する仏で、正式名称を薬師琉璃光如来といい、東方浄琉璃世界の仏と説かれている。一般に「お薬師さま」と呼ばれ、その文字から病気を治す力をもった仏として信仰されている。
 『薬師経』によると、薬師如来は菩薩の修行中に12の誓願を立て、その第六願が「私が仏になった時には、五体の障害、あるいは病に悩む人たちに対し、私の名を聞くだけでその悩みが消えるようにしてあげよう(要旨)」とあり、第七願には「病の時に、救ける者や頼りになる者がなく、食事も薬も医者もない時でも、私の名号を聞くことにより、さまざまな患いをとり除いてあげよう(要旨)」と説かれている。この二つの誓願が強調されたことから、「治病の仏」として受け入れられた。
 薬師信仰は日本への仏教伝来とほぼ同時に伝わって、奈良時代には法隆寺、薬師寺などに薬師如来が祀られた。
 また平安時代には延暦寺、東寺、醍醐寺などにも薬師如来が安置されたほか、庶民の間には病気平癒をはじめとする現世利益の信仰として広まり、特に盲目の女性が薬師堂にお参りをして目が見えるようになったとの伝説から、眼病平癒の仏としての信仰が深まっていった。さらに江戸時代には「朝観音、夕薬師」といわれるほど庶民に信仰されるようになり、各地に薬師堂が建立されていった。
 現在でも、眼病、その他の病気平癒・諸願成就を願って「め」と書いた絵馬を薬師堂に納められる風習が残っている。

【破折の要点】
◆釈尊の極説である『法華経』に至り、仏の本地が久遠の釈尊であることが説かれ、薬師如来をはじめ、すべての仏は釈尊の垂迹身であることが明かされた。したがって、本地の釈尊をさしおいて薬師如来を信仰することは仏教本来の教えに外れるものである。

◆薬師如来は、東方浄琉璃世界の仏として説かれ、娑婆世界に住む衆生とは無縁の仏であり、人々がいかに祈願しても願いが叶う仏ではない。

◆日蓮大聖人は、正法を信じない末法の衆生に対し、
 「薬師如来の十二大願、衆病悉除の誓ひも及ぶべからず。此等の薬をつかはゞ病消滅せざる上、 いよいよ倍増すべし」(妙法曼陀羅供養事 新編690)
と仰せられ、薬師如来を信仰しても病が治るどころか苦しみが増す、と誡められている。

 6 地蔵信仰

【概説】
 地蔵信仰とは、地蔵菩薩に願を掛ける信仰である。
 この地蔵菩薩は、梵語でクシティガルバといい、「大地を所蔵する神」との意味で、大地のように堅固な菩提心を持つとされていた。これが中国では『大乗大集地蔵十輪経』『地蔵菩薩本願経』『占察善悪業報経』の地蔵三経によって、「釈尊滅後、弥勒菩薩出現までの五六億七千万年間の無仏の世界に僧形の姿で出現し、衆生が弥勒に救済されるまで、この地に留まり六道の人々を救う菩薩」と位置づけられ、隋・唐時代に民間に広く信仰された。
 日本では奈良時代に伝えられ、平安中期頃より浄土信仰の高まりとともに、地獄の思想が定着し、地獄における救済者としての地蔵信仰が広まり、鎌倉時代に入ると、僧形で右手に錫杖、左手に宝珠をもつ地蔵の姿が定型化していった。また地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を救うとする六地蔵などの考えも生まれ、さまざまな形態で浸透していった。
 また、『地蔵和讃』(作者不明)で、子供が死後に苦を受けるといわれる「賽の河原」で地蔵が子供を救うとされたことから、「子安地蔵」、「子育て地蔵」、「子守地蔵」等の信仰が広まっていった。
 また、農村に広がる過程で、在来の地神(道祖神)信仰と融合し、村の境に住民の護りとして道端に置かれる形も現れるようになった。
 江戸時代になると、地蔵は現世利益の菩薩として多彩に展開し、際限なく擬人化され、さまざまな霊験を求めて「水掛地蔵」、「延命地蔵」、「片目地蔵」、「とげぬき地蔵」、「足洗い地蔵」、「水子地蔵」などが次々と創り出され、現在に至っている。
 このほか、地域により地蔵講や地蔵盆といわれる風習も残っている。

【破折の要点】
◆地蔵三経のうち、『地蔵菩薩本願経』『占察善悪業報経』は中国においてすでに偽経とされ、『大乗大集地蔵十輪経』も方等部の方便の教えであり、釈尊の本意でも真実の教えでもない。さらに日本での地蔵信仰の元になっている『地蔵菩薩発心因縁十王経』『延命地蔵菩薩経』も偽経と断定されている。
 このように地蔵信仰は、一応偽経や方便経を出所として仏教を装っているが、その実体は仏教とまったくかけ離れた低俗なものである。

◆近年、流産や事故で子を失った親が、地蔵菩薩を建立して供養する例もあるが、地蔵菩薩を子供に見立てることも経典にはない後代の創作である。したがって、地蔵信仰で供養しても正しい供養にはならないのである。

 7 不動信仰

【概説】
 不動信仰の本尊である不動明王は、不動金剛明王とも不動尊ともいい、「動かない守護者」を意味している。その起源はインド神話のシヴァ神に関連があるとされ、仏教に取り入れられてからは大日如来の使者として憤怒の相を示し、汚れを焼き、自ら動揺せず(不動)に魔を降伏し、仏道修行者を擁護するとして記され、真言宗の本尊の一つとなっている。
 不動信仰が日本で一般に行われるようになったのは平安時代の初期に、真言宗の開祖である空海が『大日経』を中国から伝えたことによる。これが平安中期に入ると、密教化が進んだ天台宗にも取り入れられ、やがて不動明王を単独に信仰するようになった。
 その後江戸時代には、不動明王を祀った成田山新勝寺(千葉県)や江戸(東京都)五色不動としての目黒・目白・目青・目赤・目黄の各不動尊などが庶民のなかに広まり、多くの不動講ができた。また不動信仰は、古くから修験道とも結びつき、山伏を通じて各地に広まり今日に至っている。

【破折の要点】
◆不動明王が仕える大日如来は、理論上の法身仏で娑婆世界の衆生を救う仏ではない。ましてその使者(化身)である不動明王に衆生を救済する力などない。したがって、法華経に背く真言の加持祈祷で護摩を焚き、不動尊に祈願をし、「身代わり札」や「交通安全のお守り」などを身につけても、かえって災難を招くこととなる。

◆不動明王のはたらきが説かれている『大日経疏』は、真言宗の善無畏が中国に『大日経』を広めるために、天台の教えを盗み入れて作成した欺瞞の書である。

 8 鬼子母神信仰

【概説】
 鬼子母神は、サンスクリット語のハーリティー(訶梨帝母)を意訳したものである。
 『鬼子母経』『雑宝蔵経』などの経典によれば、鬼子母神は、500人(一説には1,000人等)の子供を持ちながら、他人の子を奪って食らうことを常とする悪鬼であった。そこで釈尊が、その悪行を止めさせるために、鬼子母が最も可愛がっていた末の子を隠したため、鬼子母は狂ったように我が子を捜し回ったが見つからず、ついに釈尊のもとに助けを求めてきた。そのとき釈尊が、悲しみに沈んでいる鬼子母に対して、「多くの子のうち一人を失っても悲しいのに、少ない子を奪われた他の親の悲しみは計り知れないであろう」と諭したことにより、鬼子母は前非を悔いて仏に帰依し、これからは他の子供を害さないことを誓った。
 その後、『法華経』陀羅尼品に至り、鬼子母神はその娘十羅刹女とともに、法華経を受持する者を守護すると誓ったことから、諸天善神として位置付けられた。
 日本での鬼子母神信仰は、鬼子母神が多産であったことから子供に関する神とされ、平安時代には鬼子母神を「守り札」に作ったり、室町時代以降には鬼子母神堂が設けられたり、また、江戸時代には鬼子母神堂前での「お百度参り」が流行するなど、子育て・子授け・安産を願う信仰として定着していった。
 現代においては、主に日蓮宗系の一部の寺院で鬼子母神を守護神として祀っている。主なものに身延山久遠寺(山梨県)をはじめ、中山法華経寺(千葉県)・雑司ケ谷法明寺(東京都)・入谷真源寺(東京都)などがある。

【破折の要点】
◆鬼子母神は、仏に帰依して弟子となった者である。したがって、仏を差し置き、その弟子である鬼子母神を個別に祭祀・礼拝することは、仏法に背くばかりか、かえって鬼子母神が仏に帰依する前の悪鬼であった姿を呼び起こすこととなる。これを拝む人々は、「安産・子育て」どころか、悪鬼の生命に感応することを恐れるべきである。

◆鬼子母神は、『法華経』陀羅尼品において法華経を信受する行者を守護すると誓い、諸天善神として位置付けられた。したがって、諸天善神としての鬼子母神の守護の力は、法華経受持のうえにのみ現れるのであり、末法の法華経である「妙法蓮華経」すなわち、「本門戒壇の大御本尊」を信仰する人々を守護するのである。

 9 七福神信仰

【概説】
 七福神信仰は、インドの大黒天・毘沙門天・弁財天に、中国の寿老人・福禄寿・布袋、それに日本の恵比寿を加えた「七神」を一組にまとめて尊崇し利益を願う信仰である。なお、「七福」の組み合わせは必ずしも一定ではなく、福禄寿と寿老人を同一と見て、吉祥天や猩々を加えることもある。
 七福神信仰は室町時代に発生したとする説や、江戸時代初期に天台僧・天海の助言により徳川家康が尊崇したのがはじまりとする説などがある。また「七福」の語も、数字の七を尊ぶ古来の風習と結びついたという説と、『仁王経』にある「七難即滅、七福即生」の語に由来する説とがある。
 江戸時代には江戸をはじめ各地で定着し、七福神巡りと、七福神を乗せた「宝船」の絵を持つことが流行した。この七福神巡りは七福神を祀る寺院や神社を主に正月に巡るもので、七つの福徳が授かり七つの災難から逃れられるとされた。現在でも、各地で七福神巡りが行われているが、七福神すべてを一カ所に集めて神体とするものは、ほとんど見当たらない。
 また「宝船」は海の彼方から富をもたらすとされるもので、正月2日にこの絵を枕の下に敷くと運が開けると信じられていた。現在は「宝船」を床の間に飾ったり、個別の像を置いて商売繁盛を願うことが行われている。

【破折の要点】
 七福神の名は『仁王経』の「七難即滅 七福即生」の文を利用して意義付けしているが、後代に勝手に解釈したもので、本来の経文の意味とはまったく関係のないものである。
◆大黒天
もとは古代インドの創造神で暗黒の神とされていたが、後に仏教に組み込まれて軍神とされ、さらに日本に渡って厨房の神といわれるようになった。この大黒天は室町期に「ダイコク=大国」との語呂合わせから神話の大国主命と結びつき、現在では福々しい相を示しているが、これは後世に創られたものであり、元来は憤怒の相をした恐ろしい神であった。

◆毘沙門天
 多聞天ともいい、古代インドの四方護持の一人で護国・授福の神とされているが、本来『法華経陀羅尼品』で正法守護を誓った神であり、正法を離れてこの神のみを拝んでも利益はなく、かえって不幸を招くことになる。

◆弁財天
 バラモンの聖典において水の神とされたが、後に爾前経の大日経などと習合して音楽と弁舌・智慧の天神として崇められるようになった。しかしこれは権りの教えによって天神に祀り上げられたものである。

◆寿老人・福禄寿
 中国の道教で「南極老人星」という寿福をつかさどる星の名が人格化して偶像となり、福徳・長寿の神となったものである。しかし、これら偶像には真に福徳をもたらす力はない。

◆布袋
 中国・後梁時代の実在の僧・契此がモデルであるといわれる。その姿が下駄も着物も飯も漬物も、皆一緒に入っている袋を常に持っていたことから布袋の名がついたものであるが、その実体は、福神というべきものではない。

◆恵比須
 大漁や海の安全を司る漁業・航海の神とされているが、もともと「夷」・「戎」の字をあて、夷の字義のように異郷より漂着・来訪するものをいい、不幸をもたらす恐ろしい存在とされていた。また日本神話の「蛭子」は海に流されて捨てられる悲劇の神である。西宮神社などの戎社では商業の神として祀られているが、所詮は神話の域を出ないものであり、神話においても商売とはまったく無縁のものである。

 このように七福神信仰は福を招きよせる神のように思われているが、その実はインド・中国・日本三国の経典や神話から適当に集めたものにすぎず、その信仰の起源も不明瞭で、教義も道理もない、いい加減なものである。このような不合理なものを信仰することは、福を招くどころか不幸をもたらすものとなる。
また、現在の「七福神巡り」の利益は、大黒天―財福、毘沙門天―威厳・威光、弁財天―愛敬、布袋―大量、寿老人―長寿、福禄寿―人望、恵比寿―正直・清廉の福徳があるとしているが、これも根拠のないこじつけに過ぎない。

10 金比羅信仰

【概説】
 金毘羅信仰は、一般に「こんぴらさん」と呼ばれる金毘羅神への信仰で、航海や漁業の守護を祈るほか、雷神・水神・農耕神などとして崇められている。
 金毘羅とは、古代インドの神であるクンピーラの音訳で、ガンジス河に棲むワニを、恐怖の対象とし、そこから神格化したものとされている。この神は元来、インドの王城鎮守のために王舎城外の象頭山に祀られ、のちに仏教に取り入れられて、薬師12神将のうちの一神・宮毘羅大将とされた。
 日本での金毘羅信仰は、平安時代ころから讃岐(香川県)の象頭山(インドの象頭山にあてはめてこう呼んだが、明治より正式に琴平山といわれる)にあった真言宗の松尾寺が、16世紀になって、境内の鎮守社に金毘羅神を祀ったことから広まった。
 江戸時代になると、この金毘羅神は、神仏習合の「金毘羅大権現」として瀬戸内海の船乗りや船旅の安全を求める人々からの信仰を集め、さらに農漁村にも広く受け入れられて、鎮守社は松尾寺を越えるほどの盛況をみるようになっていった。さらに、江戸時代中期以降には、世相の安定に伴い、「金毘羅参り」が「伊勢参り」に匹敵するほどのにぎわいを見せるようになったという。
 明治時代になると、神仏混合の社であった「金毘羅大権現」は、『神仏分離令』によって仏教的要素をすべて切り捨てた神社となり、一時、「琴平宮(事平宮)」と称した後に「金刀比羅宮」と名乗った。
 現在の金刀比羅宮では、主神として大物主命を、またかたわらの相殿には保元の乱で讃岐に流された崇徳天皇を祀り、全国に600余りの分社をもつという。

【破折の要点】
◆金毘羅信仰は、ワニを神格化したとされる金毘羅神を拝むものであるが、これは人間より劣る畜生を崇めるものであり、拝む人の生命を畜生界に落とすこととなる。

◆もともとの金毘羅神は、仏教の守護神とされたものであり、仏をさしおいてこれを直ちに信仰の対象とすることは大きな誤りである。

◆金毘羅神は、インドで生まれた信仰で、『日本書紀』や『古事記』にも記されていない神である。にも関わらず、「金刀比羅宮」では、金毘羅神を神話神の「大物主命」として祀っているが、これは強引なこじつけにすぎない。

 11 山岳信仰

【概説】
 人々の畏敬の念から発生した山岳信仰には、山そのものを崇めるものや、山岳に祀られる神仏を信仰するもの、さらには山を修行の場とする「修験道」などがある。
 古代において、山岳を修行の場とした例は多数あるが、特に平安時代中期には天台宗・真言宗が山岳に仏教道場を構えたことから、山岳信仰が盛んとなっていった。
 修験道は、七世紀後半に現れた役小角を開祖とするものが多いが、ほかにも高野山の空海、日光の勝道などの仏教系のものや、箱根の聖占・利行、石鎚山の上仙・寂山などの神仙系のもの、さらには山人・狩人が起こしたとされるものなど多岐にわたり、神仏習合したものがほとんどである。
 平安時代末頃には、役小角が修行した場所であるとされる大峰山脈の、北部に位置する奈良吉野金峯山が、「御岳」と称して浄土(密厳浄土・霊山浄土・兜率天)に擬され、宇多天皇や関白・藤原道長をはじめ貴族による「御岳詣で」が行われるなど、南部の熊野三山とともに修験道の中心地となった。
 さらに室町時代には、この大峰山信仰の修験道組織として、天台密教系の本山派(園城寺・聖護院)と真言系の当山派(醍醐寺・三宝院)の二派が発生し、その信仰は修験者(山伏)が全国を巡ることによって広まっていった。
 江戸時代になると、修験者たちの定着化が進むと同時に一般信者の山上参りが増え、代表的な修験道として、前の当山派と本山派に羽黒山と英彦山の二派が加わり、四派となった。
 また修験道の対象となる代表的な山は、岩木山(青森県)、羽黒山をはじめとする出羽三山(山形県)、二荒山(栃木県)、筑波山(茨城県)、秩父三峰山(埼玉県)、大山(神奈川県)、走湯山(静岡県)、富士山(静岡県・山梨県)、戸隠山(長野県)、御嶽山(長野県・岐阜県)、八海山(新潟県)、白山(石川県・岐阜県)、立山(富山県)、大峰山脈(奈良県)、大山(鳥取県)、石鎚山(愛媛県)、英彦山(福岡県・大分県)など多数にわたった。これらは、行者の修行の場であると同時に信者の入山の場となっており、おおむね山頂付近の山宮(奥宮)と山麓の里宮を設け、本尊として「金剛蔵王権現」を祀るものがほとんどである。これは、修験道の基となる『金峰山秘密伝』に、「役行者(小角)が金峰山で荒行をし、祈念すると初めに釈迦如来が出現した。しかし、民衆は釈迦の本当の姿を見ることができないため、さらに祈願すると観世音菩薩(千手観音)と弥勒菩薩が出現した。そこで役行者が、悪魔を降伏する姿を示すようにと祈ると、忿りの形相の金剛蔵王権現が出現したので、役行者はこれを守護仏としてその姿を桜の木に彫刻した(趣意)」と記していることによる。
 なお、これらのうち、富士講(富士山)・御嶽講(木曽御嶽山)などの行者を中心とする流れは、後に教派神道13派のうち、明治時代に成立した扶桑教・御嶽教・実行教などの基となっている。
 明治時代を迎えると、神仏習合していた修験道は、政府の『神仏分離・修験道廃止の令』によって禁止され、山内の寺の部分が取り壊されて多くが神社となったが、戦後、信教自由の政策である『宗教法人令』や『宗教法人法』によって復活し、「金峰山修験本宗」や「本山修験宗」をはじめとする、多数の教団を形成して現在に至っている。

【破折の要点】
◆修験道の祖とされる役行者が悟ったという「蔵王権現」についていえば、「権現」とは、本来、仏教において仏や菩薩が衆生を救済するために権りの姿をもって現れるものをいうが、蔵王権現は経文の証明がなく、道理のうえからも荒唐無稽であり、役行者の幻覚の産物にすぎない。

◆修験道は、いかに人里を離れた山岳にこもって厳しい修行をしようとも、因果の道理に基づく正境に縁しない限り、思いつきで独りよがりの誤った考えに陥ることは当然であり、真の悟りを得られることはないのである。

 12 庚申信仰

【概説】
 庚申信仰は、中国の道教で説く「三尸説」をもととし、人の寿命が生前の行いの善悪によって増減するとの思想から生まれたものとされる。三尸説とは、四世紀ころ、晋の時代の葛洪が神仙術を説いた『抱朴子』という書に、「人間の体内にいる三尸(上尸・中尸・下尸)という三匹の虫は、人間を早死させることを望み、庚申の夜、その人の日頃の罪過を、人間の寿命をつかさどる司命道人(天帝)に報告する。これにより、天帝はその人の寿命を縮めてしまう(趣意)」と記していることによる。
 この信仰は、三尸が人間の日頃の罪過を天帝に報告するのは人が眠っている間とされることから、庚申の日に「守庚申」と称する集会を行い、朝まで眠らず、三尸が天帝へ報告することを阻止して長寿を得ようというものである。
 日本での庚申信仰は、平安時代に宮中で飲食の宴を中心とする守庚申が行われるようになり、室町期には、これに青面金剛や帝釈天・観音・阿弥陀などを混同した仏教的な庚申信仰が生まれた。さらに江戸時代になると仏教的なものに対抗して、神話の猿田彦を庚申の申にこじつけて神体とする神道的な信仰が現れ、また修験道でも庚申信仰を取り入れるなど、さまざまな形態で広まっていった。
 これらは、庚申講という組織のなかで、庚申堂・庚申社や庚申塚などを建立し、天帝と混同した雑多なものを本尊として祀っていたが、明治時代の「神仏分離」の政策によってそのほとんどが処分されることとなった。
 現代では、干支を使うことが少なくなったため、庚申信仰は著しく衰退したが、それでもわずかな数の庚申堂が残り、庚申塚が道端に見られる。また、60日ごとの庚申の日に徹夜をすれば長生きをするという守庚申も、庚申講本来の意味を失って単なる心安めの宴会の場となり、限られた地域の習俗として伝えられるのみである。

【破折の要点】
◆庚申信仰の元となる道教は、長い歴史の経過のなかで多種多様の神仏を取り入れながら変化を続け、一貫した教義をもっていない。その一部としての「三尸説」は、平素の善行を勧めるものではあるが、三尸が庚申の夜に罪過を天帝に報告して人間の寿命を左右するなどという説は、何らの根拠もなく因果関係も成立しない愚論である。

◆日本での庚申信仰は、古代中国の道教の行事である「守庚申」を名目として、夜をとおしての宴を行うことからはじまったもので、迷信から発展した信仰である。また、庚申の申にちなんで、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿を配するなど、語呂合わせを取り入れた迷信にすぎない。


 
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