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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 神道と民間信仰・俗信 俗信

三 俗信

 俗信とは、古代からの信仰や呪術が宗教にまで高まることなく俗化されたり、人々の生活体験から得た知識などが元となって生まれ、断片的にいい伝えられたものである。
 俗信の定義は一様ではないが、大きく分類すると、未来を予測しようとする予兆(兆し)と卜占(占い)、またそれらによって予測される災難を避けようとする禁忌(忌み)と呪法(呪い)の四種類になるといわれている。また、これらに関連するものとして、陰陽道・霊魂・巫者などさまざまな形態がある。

 1 予兆

 「予兆」とは、キザシ・シラセ・前兆などともいい、これから起こるであろう出来事をあらかじめ感覚的に知ろうとすることをいう。
 これらの予兆は、農耕・漁業への関わりや人間の生死など、個人の日常生活に密着したものが多く、それらのなかには、天体などの自然現象に関わるものや、動植物などに関するもの、また日常の身の回りから得るものなどがある。
 主な予兆には、以下のようなものがある。
〈天体などの自然現象に関わるもの〉
 「朝焼けは雨・夕焼けは晴れ」「朝虹は雨・夕虹は晴れ」「月が暈をかぶれば雨」「日食は凶事が起こる」「月食は疫病がはやる」「大雪が降れば豊年」「稲妻が多い年は豊作」「流れ星の落ちた方角に不幸が起こる」など。

〈動植物に関するもの〉
 「ネズミが作物を荒らす年は大雪」「ネズミがいなくなると災害が近い」「フクロウが鳴くと明日は晴れ」「カエルが鳴くと雨」「ヘビが木の上を這えば大雨と洪水」「からすの一声鳴きは不幸が起こる」「ネコが顔を洗うと人が来る」「ツバメが巣をかけると家が栄える」「犬の遠吠えは人が死ぬ」「朝のクモは吉兆」「夜のクモは来客がある」「鳥の糞がかかると幸運」「玄関の一本木は不吉」など。

〈日常の身の回りから得るもの〉
 「茶柱が立つと縁起が良い」「茶碗のご飯がきれいに取れれば雨・取れにくいと晴れ」「眉が痒いと来客がある」「夜に耳が痒いと翌日良いことがある」「死んだ人が親しい人に虫の知らせをする」「明け方の夢は実現する」「火事の夢は縁起が悪い」「ヘビの夢は縁起が良い」「戌の日に結婚すると帰ってくる」「首の周囲にホクロがあると金持ちになる」「影が薄い人は早死にする」「葬式に出会うのは吉兆」「墓で転ぶと不吉」「額が自然に落ちると不吉」「箸が折れると凶事がある」など。

【破折の要点】
 予兆の一部には、自然現象の変化に対して無力の人間が、経験を積み重ねたうえから得た知識もあるが、なかにはまったくの迷信もあり、これらを盲目的に信ずることは人生に支障ときたすものとなる。

 2 卜占

 「卜占」は、うらない・卜・占ともいい、将来の出来事について、感覚による受動的な予兆とは異なり、何らかの手段を用いて能動的・積極的に吉凶を判断しようとするものである。
 古代中国での占いは、亀の甲羅を焼いてできるひび割れの形を見て吉凶を占う「亀卜」や、『易経』に基づいて筮竹を使う「易筮」、また陰陽五行説に従って式盤を使う「式占」などがその原点とされている。
 日本では、古くより鹿の骨を焼いて占う「鹿卜」などが行われていたとされるが、7世紀頃までに、中国で行われていた種々の占いが伝わり、奈良時代の律令制度で卜占に関する役所が置かれて、「亀卜」と「易占」とに分けられた。そのうちの亀卜は、朝廷や天皇の大事を決定する占いとして神祇官のト部家が行い、易占は、中務省の陰陽寮が中国古代の陰陽五行説をもとに取り仕切って、ともに政治に関与した。この陰陽五行説をもととして、儒教・道教や密教の影響を受けながら、10世紀頃に日本で成立したものが「陰陽道」である。
 これは、宇宙万物を陰と陽の二元から解明しようとする陰陽説と、万物を支配する活力が木・火・土・金・水であるとする五行説を組み合わせて発生し、これに九星・六曜・金神など、さまざまな形を混在させたものである。初期の頃の「陰陽道」は、日時や方角の吉凶を占うことを主としていたが、平安時代に至り、安倍晴明などの陰陽師が出現して、次第に禁忌・呪法を主とするものに変化し、貴族社会にも受け入れられていった。さらに社会全般に広く俗信化し、冠婚葬祭の日取りの吉凶や家屋の方角を占うのみならず加持祈祷まで行う陰陽師は庶民生活にも大きな影響を与えた。しかし、陰陽道は明治時代になると弊害の多い俗信として法令で禁じられ、陰陽師の取り締まりが厳しく行われたことにより、勢力を失った。
 そのほかの卜占も、仏教や神道・儒教などの影響を受けながら、さまざまに変化を遂げたが、江戸時代には、庶民の占いとしての「易筮」が盛んに行われるようになった。これは、『易経』に基づいて、主に易者や八卦見、修験者や神主などが扱った。その内容には、人相・骨相・手相などから運勢を占う「観相」や、姓名の「文字の画数」で占うもの、また「家相・方位」などがある。さらにこのころから、「暦」によって個人が吉凶を判断することが行われるようになり、今日に至っている。
 以上のように卜占は、陰陽道と易経をもととするものが多いが、その他にも、これらを組み合わせたものや西洋から伝えられたもの、また農村の年占や、夢占・石占・夕占などさまざまなものがあり、現代では一般に「占い」と総称されている。それらの主なものは、おおむね以下のごとくである。
〔鹿卜〕主に鹿の骨を焼いて水を掛け、そのひび割れの状態を読んで吉凶を占うというもので太占ともいう。古代の日本で行われていたが、やがてすたれた。
〔亀卜〕亀の甲を焼いて現れる裂け目を卜といい、これを見て物事の吉凶を占ったもの。古代中国において、占星術や易占と並んで行われ、国家の政治にも重大な影響を及ぼした。日本に伝わると、古来の鹿卜に替わって行われたとされる。
〔易占〕『易経』に基づき、筮竹や算木で卦を立てて吉凶を占うもので、中国の古代からすでに行われていた。これは、卦の基本形を八種類とし、それを重ね合わせた六四種類の運勢について、50本の筮竹と算木を用いて易経を解釈しながら占う。八卦ともいい、占いの主流となっている。
〔観相(人相・骨相・手相)〕顔(人相)や骨格(骨相)、指・掌の線状(手相)の形態から、人の才能や運勢などを占うもの。古くから行われていたが、特に江戸時代になって、中国の観相術の書である『神相全篇』が伝えられてから、浪人や町人が生業とするようになり、一般に広まった。手相・人相は、現代の占いの中でも幅広い人気がある。
〔字画占い(姓名判断)〕姓名の字画数や読み方から、運勢を判断する術。中国の「相字法」をもととし、陰陽五行説が結び付いて吉凶を占うようになった。江戸時代、観相術とともに民間にひろまり、現代に至っている。
〔家相(方位)〕神主・易者や方位師などが、陰陽五行などを組み合わせた方位説に基づき、家屋を建てる土地の形状や、建物の位置・方角・間取りなどの吉凶を判断するもの。特に東北の方角を鬼門として嫌い、この方角に戸口・井戸・便所を置かないなどとする。また工事の日程等についても、年回り・日和りの善し悪しについて暦で判断した。
〔風水〕地形・水・気候などの自然と、陰陽・五行などの宇宙の運行が、人間や死者に大きな影響を及ぼすとして、市街地・家屋・墓などを造る際に、その方位・形態と自然との調和の吉凶を判断するもの。中国古代に起こり、台湾・韓国で盛んに行われていたが、現代の日本でもマスコミ・テレビなどを通じて知られるようになった。最近では、色の組み合わせによって占うものも現れている。
〔占星術(九星術・四柱推命学・12星座占い)〕中国が起源の九星術・四柱推命と西洋の12星座占いがある。「九星術」は、方位を占うものであったが、明治以降の高島暦などに記されるようになったことから、次第に個人の運勢の占いへと変化した。記号としての九星(一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星・六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星)を定め、これを生まれ年にあてて、その運行を五行(木・火・土・金・水)と絡めながら、他人との相性などを占うもの。一方、西洋から伝わった「12星座占い」は、1年を12星座(おひつじ座・おうし座など)に分け、生まれた月日で運勢・相性などを占う。昭和の後半には九星術に取って代わり、現在では新聞・雑誌への掲載などから、若者を中心に広く受け入れられている。なお12星座占いは、西洋占星術としては略式のものであり、これに天体の位置・角度まで加えて吉凶を解読しようとするものもある。
 また「四柱推命学」は、万年暦をもとに、生年・月・日・時間の四要素(四柱)を12干12支に組み合わせて運勢・相性を占うもので、九星術や12星座よりも詳細に占えるとしている。
〔おみくじ〕神意をはかったり、物事の順序・当番などを決めるためにはじまったもので、現代では、神社や寺院が、未来の運勢や事業などの吉凶を占うものとして商業化している。
〔年占(粥占・豆占)〕農耕・漁業の収穫を占う年中行事で、相撲・綱引きなどの勝負によるものや、粥を炊いた釜に笹竹やワラを差し込み、それについた粥粒の量で占う「粥占」、並べた豆の焦げ具合で占う「豆占」などがある。
〔夢占〕見た夢の意味を解いて、吉凶を判断するもの。縁起が良いとされるものには「宝船」があり、枕の下にその絵をしいて寝たりする。また、正月2日の初夢として「一富士・二鷹・三ナスビ」などが吉とされる。しかし不吉とされる夢に対しては、逆夢などといって都合の良い判断をする。
〔石占〕神社などにある特定の石を持ち上げ、その重さの感じ方で吉凶を判断する。
〔夕占(ゆうけ)(橋占・辻占)〕夕方に、道を通る人の話を聞いて吉凶を占う。また橋のたもとや辻で、最初に通る人の言葉で占うもの。
〔その他の占い〕現代には、トランプやカードの組み合わせにより運勢を占うものや、水晶などのような小道具を使うもの、さらにはコンピュータによるものなど、数え切れないほどの占いが氾濫している。また、多数の占い師を雇い入れて占いを企業としているものや、新興宗教の阿含宗のように大都市の繁華街を中心に「占い館」を営業するものもある。

【破折の要点】
 占いは、因果の道理に基づかない偶然性や一過性のものを拠り所としたり、統計的に類例の多いものを極端に結論づけるものが多く、人の将来を占うのに、それぞれの心の持ち方や考え方などは考慮されない。本来、我々の人生や生活は、その時々の心と行為によって幸不幸の差が生ずるのである。その点、物事を固定化して結論づける占いは、人間が自らの努力によって幸福を得ようとする意欲を失わせ、占いの吉凶に一喜一憂させて、他に依頼する心を増長させるものである。したがって、占いは人生を助けるどころか、かえって人々を惑わす弊害の方が大きいのである。

 3 禁忌(タブー)

 禁忌とは、先の予兆や卜占によって、悪い結果がもたらされると推測される行為をさけることや、禁止することをいう。これは、神聖なものを犯さないことや、不浄なものに対して接触を回避したり禁止することであり、古くからイミ(忌み)または物忌(ものいみ)という言葉で用いられてきた。
 この忌みには、穢れを避け、身をつつしむという意味があり、古くは神道などにおいて死や出産が穢れと考えられていたことから、これに触れることを忌み、これらに携わった者は、他人と交わることをつつしまなければならないとの観念から「黒不浄」「赤不浄」などの禁忌が生まれた。
 さらに「夜、爪を切ると親の死に目に会えない」、「食べてすぐ寝ると牛になる」など日常生活の慣習や、道徳的なしつけなど、さまざまな禁忌がある。
 主な禁忌として、次のようなものが挙げられる。
〔黒不浄〕死者の家族、親族には「死」の穢れがついているとされ、一定期、喪に服さなければならないとするもので、死者の家の火は死火として恐れられ、その火で煮炊きした物を食べた後、蚕室や田畑に出ると、蚕が死んだり、作物が枯れるなどとされている。
〔赤不浄〕女子の出産や月経を、血の穢れとして忌むもので、一般に神前に出ることを禁じた。また火は神聖なものとする観念から、不浄なものを排除するとして、このときの女性が他人と同じ火を使うことを禁じていた。
〔三隣亡〕中国の占術である九星術の一つで、この三隣亡の日には建築を避けるというものである。字の通り、この日に建てれば火災を起こし周り三軒を亡ぼすといわれている。
〔六曜〕先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六つをいい、友引には葬式をしない、仏滅には祝い事を避けるなどの類で、現代社会にも広く用いられている。この六曜は古代中国の暦注の一つで、時刻の吉凶を占っていたものが、日本に伝わり次第に変化して、江戸時代中期に現在の形になった。
〔丙午〕干支の丙午の年に生まれた女性は将来、夫を殺すといわれて結婚をいやがられたり、女児のとき密殺されるなどの悲劇があった。しかし丙午の年については、もとは災害の多い凶年とする中国の伝説である。
〔厄年〕男性は25・42・61歳、女性は19・33・37歳を厄年として忌むもので、結婚、妊娠などを避けるとされた。また親の厄年に生まれた子は育たないといわれ、いったん捨てて他人に拾ってもらうなどされた。現代では、身体の節目などとして健康面と関連づけて解釈されている。
〔鬼門〕方角に関する禁忌で、鬼門とは東北をさし、陰陽五行説の影響で、陰悪の気が出入りするところから危険な方角とされ、戸口、井戸、便所などを置かないとする。またその反対の西南も裏鬼門といって忌むものとされている。
〔一本箸〕死者のお膳に箸を1本だけつける風習があることから、1本の箸で物を食べない。また死者の御飯に箸を立てるところから食事のときに御飯に箸を立てることもタブー視されている。なお、1杯飯、1本花も死者に供えるものなので、普段は使わないなど、日常生活で凶事を連想させる行為が忌まれた。
〔忌み言葉〕特別の場所や機会に、普通のいい方をはばかって使うのが忌み言葉であるが、次第に、すり鉢を「あたり鉢」、塩を「浪の花」、終わりを「お開き」、死ぬことを「旅立つ」など、縁起の悪い言葉を避けるために使われるようになった。

【破折の要点】
 禁忌は、医学・科学未発達時代の人々の観念から起こったもので、裏付けも根拠も乏しいものである。現代社会に浸透している「六曜」も、本来の意味がねじ曲がって伝わったもので、すべて迷信にすぎない。

 4 呪法(まじない)

 呪法とは呪術ともいい、自然界に存在する神秘的な力に働きかけて、目的を達成しようとする意図的な行為で、専門職を置かないものをいう。禁忌が不吉なものを避けるという消極的なものであるのに対し、呪法は積極的に害悪を払う手段といえる。
 呪法を分類すると、災害を予防するための「魔よけ」や、災害が起こったときにそれを除こうとする「疫神送り」などに分けられる。以下、次のようなものがある。
〔魔よけ〕外から来襲する悪魔をおどして退散させるとする「まじない」をいい、これには神仏の札を貼ったり、呪文を唱えたり、呪物として刀・鏡・針・櫛・箒・焼かがし(鰯の頭)を置いたりする。
〔疫神送り〕疫病が流行したとき、疫病神を象徴する藁人形を作り、村人たちがこれを持って村中を回り、村はずれで焼くか川に流すなどする。
〔道切り〕疫病神や魔物を防ぐために、村の入口にしめ縄を張ったり、札を立てるなどする。また魔よけの門守りとして家の入口にも置かれる。
〔木まじない〕果樹の実がよくつくように行うもので、柿、梨などの幹に傷をつけ、一人が「なるか、ならぬか」というと、もう一人が「なります、なります」などと唱えてまわる。
〔火伏せ〕火よけのまじないとして、寒の九日目に降った雨水をとっておいて屋根にかける。

【破折の要点】
 呪法は、教育や文化が発達していない時代の非科学的産物であり、そのすべてが迷信の域を出ないものである。現在・未来にわたって安穏な生活を送るためには、道理・文証・現証が整足している正しい仏法を信仰する以外にない。

 5 霊魂

【概説】
 霊魂に関する概念は、死霊や祖霊と結び付けた考え方として、古代から世界各地に存在しているが、地域や時代、文化や宗教によって大きく異なっている。俗信における霊魂とは、身体に宿ってその精神や生命をつかさどり、死を迎えると肉体を離れて浮遊したり、どこかに存在すると考えられているものであり、「たましい」などとも表現されるが、仏教で「生命」を指していう「たましい」とはまったく別のものである。
 霊魂について、古代ギリシャでは気息・呼吸を意味する語とされ、これは肉体が滅ぶと独立した自由な存在となり、不滅であるとされていた。この観念は次第に発展して、霊魂こそが人格や精神の根元であると考えられるようになり、キリスト教ではこれを「アニマ」と表現するようになった。
 また、インドのバラモン教では、身体は単なる器であり、これに宿った霊魂こそが常住不変の実体「我」であると主張した。
 これに対して釈尊は、仏教の初歩段階の小乗の法門において「苦・空・無常・無我」の四念処を説き、バラモンの主張する「我」という固体的な霊魂の存在を否定している。
日本での「霊魂観」は、祖霊崇拝を基盤としている。
 古代においては、亡くなった人の死霊(霊魂)は生きている者に障りをなす恐怖の対象と考えられ、精霊信仰(アニミズム)をもととする俗信や神道によって、盛んに死霊に対して鎮魂の儀礼が行われていた。そして、この鎮魂祭祀を一定期間行うことにより、悪霊である死霊は子孫を守る「祖霊」へと変化し、さらに信仰崇拝の対象である「神霊」に昇華すると考えられるようになっていった。以来、この原始信仰の祖霊崇拝が、日本の霊魂観の主流をなすこととなる。
 奈良・平安時代になると、強い怨念をもって非業の死を遂げた人の霊魂は、一般の鎮魂儀礼では鎮めることができない「怨霊」として恐れられるようになり、「たたり」の考え方や「御霊信仰」が発生した。北野天神の菅原道真などは当初、怨霊として祀られたものである。
 その後、この霊魂の観念は、時代の変化に伴って、神主・巫女・修験者などにさまざまに意義付けされて多くの宗教を生む元となった。
 現在では、神道や俗信のみならず新興宗教や新新宗教でも、善と悪の霊魂が存在するという考え方や、祖先崇拝の感情などを「たましい」や「霊」などの言葉にすり替えて、その宗団の教えや儀式の拠り所とするものが多く見られる。

【破折の要点】
◆仏法においては、三世にわたる永遠の生命観と、色心は一如であることが明かされて、特別な霊魂などが存在しないことを明示されている。すなわち、不幸や災害は、霊魂(悪霊)によってもたらされるのではなく、自らの心身両面にわたる行為の因果によって起こるのである。したがって、「霊魂」が独立した形をもって、人に災いをもたらしたり、子孫を守るなどの特別なはたらきをする、と説く「御霊信仰」や新興宗教などの霊魂説は、真実の生命論とかけ離れた迷信というべきである。
 なお、日蓮大聖人の御書にある「悪霊」「幽霊」などの言葉は、死者の「生命」を指す言葉として使われたものであり、ここにいう俗信のそれとはまったく別の意義である。

 6 巫者

【概説】
 「巫者」とは、霊が取り憑いたとする“神がかり”状態を示して、霊媒を行う男女のシャーマンのことをいい、女性を巫(かんなぎ)・巫女、男性を覡などとと称する。これらは、神や死人の霊と直接交流できるとして、神意を託宣したり、占い・祭儀・呪術などを行う。その憑依の形態は、自己自身に霊が取り憑くものや、他者に取り憑かせるなど、多様である。
〔古代の巫女〕日本古代の邪馬台国の女王・卑弥呼や、神功皇后などは、巫女であったといわれている。これらは、霊的な存在を自身に取り憑かせて、直接自らが呪術的な司祭者として振る舞い、政治にも大きな影響を与えたとされる。
〔憑祈祷〕平安時代ころになると、それらに加えて、密教や修験道が関わるようになる。その主なものとして、修験道の「憑祈祷」がある。これは、男性の行者や修験者が操作した霊を巫女に取り憑かせ、“神がかり”となった巫女が霊に代わって語り終えてから、再び行者が霊を追い払うというものである。
〔口寄せ巫女〕巫女が死者の霊や消息不明の生者の霊になり代わり、自身の口をとおして語るものが、「口寄せ巫女」である。「口寄せ巫女」の起こりは鎌倉期頃とされ、巫女は諸国を流浪して民間の人々の求めに応じ、さまざまな「口寄せ」を行った。現代ではイタコなどがこれに当たる。
〔神社巫女〕巫女には、憑祈祷や口寄せを行う「口寄せ系の巫女」のほかに、「神社巫女」がある。神社巫女とは、古来、神社に所属して神楽や湯立ての神事に従事するものをいうが、現代の神社巫女は祭事や社務を行っているだけで、シャーマンの要素はない。
〔現代の巫者〕現代の巫者の形態はさまざまで、全国各地に霊媒師・祈祷師・行者・オガミヤなどとして存在するが、特に東北地方のイタコ・カミサン・オガミサマや沖縄地方のユタ・スンガンカカリヤーと呼ばれる者などが、主に死者の霊を寄せると称して、語ったり占いを行ったりしている。

 また新興宗教や新新宗教のなかには、大本教・天理教・天照皇大神宮教などのように“神がかり”した巫者が教祖となっているものや、真如苑・解脱会・円応教などのように憑祈祷の手法を取り入れたものなど、憑依現象に関係するものが多数存在している。

【破折の要点】
◆巫者は、苦しんでいる死者の霊と交流できるというが、このこと自体、巫者自身が死者と同じ迷いの境界の衆生であることを示すものである。また、現在の霊媒師やイタコなどは、あたかも死者と交流する特別な力があるように見せかけるが、それを商売の手段としているだけである。
 もし仮に、死者を呼び出したところで死者の苦しみを解決することはできない。死者の真の救いは正しい仏法による回向以外にないのである。

◆新興宗教や新新宗教などで売り物とする教祖の“神がかり”は、それらの者の精神が異常な状態であったことを示しているのであり、とうてい真の救いとなるものではない。このような教えに頼り、「あなたの苦しみは、先祖の悪霊のせいである」などとして、苦しみや悩みの原因を自分以外のところに求めても、何の解決にもならない。自分が受けるすべての現象は、過去・現在にわたってなしてきた自分自身の因果によることを知るべきである。

 7 その他

〔祭り〕
 「祭り」とは、神に人が従う・奉仕するという意味の「まつらふ」を語源とし、「祭」の字の上半分は肉を持つ手、「示」は神にいけにえをささげる台を意味するとされている。したがって具体的な儀礼を通して神の霊力を増強し、人はその神威を享受すると考えられている。
 現代社会では、神社主催の「祭り」をはじめとして町内会の「夏祭り」から、自治体主催の「市民祭り」まで、さまざまな祭りが行われている。そして神社主催の祭りは当然ながら、共同体の祭りも神輿、お祓いなど、ほとんどの場合、なんらかの形で神道と関連している。
 神社本庁は3大活動方針の第1に「神官、神社を日本人の魂のふるさとと仰ぎ、祭りを中心に敬神の念を高揚する」と掲げ、さらに4大活動目標の一つに「祭りの振興」を挙げている。これは、戦後の新憲法のもと国家神道の基盤を失った神社が、その維持基盤を取り戻すために祭りを中心とする地域への浸透をはかり、神道中心の国民意識を作り上げようとするもので、祭りをもっとも有効な手段と考えていることを示している。
 また、祭りの神輿は神霊の乗り物、山車は神霊が依っていることを標示するものとしている。したがって神道の信仰を持たない人が、地域友好・地域活性化などを目的として参加しても、神輿をかつぐことなどは、神道の方針に荷担していることになる。
 祭りは種々の形態で行われているが、真に神を祀っているものではなく、これに参加することは邪神を増長させ、正法のはたらきを妨げることとなるのである。
 なお、非宗教的な商店街や会社の集いとしての「〇〇祭り」と称する類のものには宗教性がないので自由である。
〔縁起物〕
  世の中には、商売繁盛、開運を願って、破魔矢、ダルマ、招き猫、盛塩、熊手などさまざまな縁起物と称されるものがある。しかし、これらは根拠の乏しい俗信であり、それに頼ることは仏教の精神にはずれ、また神社などで販売する物を飾ったり、持つことは謗法である。
〔年中行事〕
 日本全国には、正月・節分・雛祭り・端午の節句・七夕など、一年をとおしてさまざまな行事が存在している。これに加え、地域による年中行事・伝統行事などがあるが、これらの善悪は行事そのものの善悪ではなく、その主体と信仰の正邪によって判断されるものである。したがって、正法を根本として行うことが大切である。
〔クリスマス〕
 クリスマスは12月25日をイエス・キリストの誕生日として祝うキリスト教の祭りである。もともとイエスの誕生日は不明確であったものを、カトリック教会が、ローマで行われていた「冬至の祭」と結びつけてこの日とした。(東方教会では1月6日に行う)
 日本でのクリスマスは、仲間が集って飲み食いをしたり、贈り物をする俗習として広まっており、多くの人はキリスト教に無関係としているが、これは日本人の宗教観のいい加減さを露呈するもので、大局的に見れば、キリスト教に与同している姿といえるであろう。


 
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