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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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諸宗破折ガイド 世界の宗教 イスラム教

三 イスラム教(イスラーム)

【歴史と現状】
 イスラム教は、ムハンマド(マホメット)によって創唱された、アッラーを唯一神とする宗教である。仏教、キリスト教とともに、世界の三大宗教の一つに数えられている。
 ムハンマドは西暦570年ごろ、アラビア半島のメッカに生まれた。幼いころ、両親に死別し、親戚に養われたが、25歳のとき、裕福な未亡人ハディージャと結婚し、生活の安定を得た。このころから、伝統的な価値観に対する疑問や貧困問題などで、メッカ近郊のヒラー山の洞窟で独り瞑想にふけるようになった。
 40歳のころ、瞑想中に突如、天使ガブリエルがあらわれ、啓示を告げた。当初、これがアッラーからのものと信じることができなかったが、やがて自分が神の意思によるところの預言者であると自覚するようになった。以来、ムハンマドは、死ぬまでの20数年間にわたって啓示を受け、これを人々に語った。
 ムハンマドは、偶像崇拝を禁じる教えを説いた。そのためムハンマドは、女神を信仰していた当時のメッカの人々と対立し、迫害を受けた。
 622年、ムハンマドと70人の信徒は、メッカから密かにメディナに移住した。彼はここで多くの信徒を得、はじめて信仰実践のための共同体をつくった。この共同体の規範は、信仰だけでなく、日常生活全般までを含むところから、ムハンマドは宗教上の中心者であるだけでなく、政治的な指導者でもあった。メディナ移住(ヒジュラ)が教団発展のきっかけとなったため、後年、この年がイスラム歴(ヒジュラ暦)の元年と定められた。
 630年、ムハンマドは3回の戦いでメッカを征服し、カーバ神殿に祭られていた女神の像を破壊し、そこをイスラムの主神殿とし、聖地と定めた。
 632年、メッカの巡礼からメディナに戻ったムハンマドは、間もなく病に倒れ、60余歳でその生涯を閉じた。このころイスラムの教えは、アラビア半島中西部にまで広まっていた。
 彼の死後、アブー・バタルをカリフ(後継者)に選び、イマーム(共同体の指導者)とした。これがイスラム帝国(サラセン帝国)のはじまりである。3代カリフのウスマーンのとき、イスラム教の聖典『コーラン(クルアーン)』が成立した。この時代には、イスラムの教えは武力によって、東は現在のイラン、西はエジプトまで広まっていた。
 4代カリフのアリーまでを正当カリフ時代とよぶが、アリーは同じイスラム教徒に殺され、対立していたウマイヤ家のムアーウィヤがダマスカスを都と定め、王朝支配をはじめた。約1世紀続いたこのウマイヤ朝のころ、イスラムの教えは、東は現在のアフガニスタン、パキスタン方面、西はアフリカ北部、スペインまで広まった。
 750年、ムハンマドの叔父の子孫、アッパース家は、ウマイヤ朝の政情不安に乗じて革命を起こし、バグダードを都として、アッパース朝を建てた。
 アッパース朝は、11世紀末にはじまったキリスト教十字軍との戦いで、大きな痛手を受け、1258年、モンゴル軍の攻撃により亡ぼされた。ここに600年余り続いたイスラム帝国は終焉した。
 ウマイヤ朝、アッパース朝と続くなか、カリフの流れを正統とするスンニー派、ムハンマドの血を引くイマームを正統とするシーア派など、多くの派ができた。
 14世紀、小アジアにスンニー派のオスマン朝トルコができ、同じころイランにシーア派の一派である一二イマーム派によるサファビー朝ができた。
 また、16世紀はじめ、北インドにイスラム教徒によるムガール帝国が起こった。
 第二次大戦後、イスラム圏も各地域や民族などによって、それぞれ国が作られたが、イスラム教との関わりあいは、その国々によってまちまちである。
 イスラム教徒(ムスリム)は、西アジアからアフリカ、インド、東南アジア、ロシア、中国にまで及んでおり、信徒数は10億ともいわれる。イスラムは他宗教への改宗を神への裏切りとして認めないため、信徒数は現在も増え続けていると見られる。

【教義の概要】
 イスラムとは、「唯一の神に絶対的に服従する者」の意であり、イスラム共同体(国家)の建設により平等の社会を実現し、死後の安楽な世界を求めるものである。

〈コーラン〉
 イスラム教の教典は『コーラン(クルアーン)』である。『コーラン』は、「読まれるもの」という意味で、天上の石板に記されていた神の言葉をそのまま写したものであるとされている。内容は、人々が記憶していたムハンマドの活動と、その関わりのなかで受けた啓示を集めたもので、アッラーの特性を数多く挙げ、アッラーは唯一絶対の神で、慈悲深く、全知全能で、天地万物の創造者、支配者であり、並ぶものはないとしている。また、人々は、これに従い、感謝して人生を送れば、神の祝福を得られると説いている。
 イスラム教では、ユダヤ教やキリスト教の神や啓示を否定はしていないが、啓示を書き記すときに誤りを犯したため、『旧約聖書』や『新約聖書』などは不完全なものと考えている。そして、正しく神の意思を伝えるための最後の啓示が『コーラン』であるとする。
 イスラム教徒は『コーラン』を、生後間もないころから語りかけ、言葉を話せる年齢になると暗唱をはじめ、死ぬまで常に唱え続けることを教える。
 『コーラン』に次いで権威をもつものにムハンマドのスンナ(先例・範例)がある。スンナは具体的には、『ハディース』(預言者の言行録)のなかにあり、『コーラン』の解釈はこれを基準として行われなければならないとしている。
 『コーラン』と『ハディース』をもとに、実社会の問題に対応する規則として定められたのが『イスラム法』(シャリーア)である。イスラム法は、宗教に関わる規範だけでなく、婚姻、親子関係、相続、契約、証言、裁判、犯罪等々の社会的な生活規範を含むイスラム独特のもので、イスラム共同体を治める根本的なものとなっている。

〈6信5行〉
 イスラム信仰の内容と実践を簡潔にまとめたものを、「6信5行」という。6信とは、信ずべき次の6つを指す。
 ①アッラー…唯一絶対神
 ②天使…神と人間の世界の橋渡し役
 ③啓典の書…『コーラン』と、『聖書』のなかで正しく神の言葉と認められた部分
 ④預言者…ムハンマド
 ⑤来世…最後の審判により、永遠の安楽が約束される未来世
 ⑥予定…地上のことは、すべて神によって、あらかじめ定められていること
 5行(5柱)とは、実践すべき5つの重要な項目を指す。
 ①シャハーダ(信仰告白)…「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」              と唱える
 ②サラート(礼拝)…夜明け・正午・午後・日没・夜半の礼拝。礼拝は聖地であるメッカの方角           に向いて行われ、1人でも行うが、特に金曜日は集団で行うよう教えられ           ている
 ③ザカート(喜捨)…資産、収入に対して課せられる税
 ④サウム(断食)…イスラム暦第9月であるラマダーン月の1カ月間、日の出から日没までの間、          一切の飲食を絶つ
 ⑤ハッジ(巡礼)…イスラム暦第12月の7日から10日までに、メッカのカーバ神殿に行くこ          と。一生に一度は行う義務とされている

 なお、これら5行のなかには入らないが、「ジハード(聖戦)」もイスラム教徒の重要な義務とする。これは、神のために戦うこととされ、イスラム世界が異教徒から脅かされるときなどに求められる。直接戦うことだけでなく金銭的援助や馬や武器などの提供も認められる。
 近年では、平和的なイスラムの拡大こそが真のジハードであるとの解釈もされている。

〈分派〉
 イスラム教には多くの分派がある。これは法義的な解釈の違いだけでなく、政治的な立場なども絡みあって複雑である。
 分派は、ムハンマドの死後3~40年ごろより見られるが、現在では、スンニー派とシーア派が大部分を占める。
 「スンニー派」は、イスラム教徒の八割以上を占めている派で、『コーラン』とスンナに従うことを信仰の基礎としている。また、カリフによる継承の歴史を、そのまま承認する立場をとり、イスラムの正統派と主張する。
 「シーア派」は、イラン・イラクを中心に、イスラム教徒の1割ほどが属している派である。ムハンマドの血族である四代カリフのアリーとその後裔のイマームを、正統な後継者としている。イマームは、神が定めたアリーの子孫でなければつくことができないとし、教義の決定権や立法権などが認められている。
 スンニー派・シーア派のなかにもさまざまな分派があり、それ以外にも多くの派がある。
 なお、イスラム原理主義とは、経典に説かれた当時に返り、それに忠実に従おうという考え方で、各派にそれぞれ存在しており、特別な一派ではない。イスラム原理主義のすべてがテロ、暴力を容認するものではないが、それを積極的に肯定する集団も多い。


 
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