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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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諸宗破折ガイド 世界の宗教 チベット仏教

八 チベット仏教

【歴史と現状】
 チベットでは、人口の大多数が仏教徒である。仏教の宗派は、ニンマ派、サキャ派、カギュー派、ゲルク派の四大宗派をはじめとして20派近くあり、すべて密教を最高の教説としている。
 これら各派は、かつては「ラマ教」といわれていたが、近年はチベット仏教、あるいはチベット密教と呼ばれている。7世紀中ごろ、唐(中国)から吐蕃(古代チベット)に仏教が流入した。したがって、その内容は大乗教を主とする北伝仏教であった。この教説は土俗宗教のボン教(ポン教)と、争いや融合を重ねながら、国内に浸透していった。
 8世紀後半、インドからパドマサンバヴァ(蓮華生)が招かれ、密教が伝わった。これ以後、仏教の導入は、唐からインドに変わった。このパドマサンバヴァは、現在でも宗派を越えて尊敬されおり、4大宗派のなかのニンマ派(古派)では開祖としている。
 このころから経典類のチベット語訳が、国家の擁護のもとに盛んに行われた。この吐蕃時代の訳経を古訳と呼ぶ。
 9世紀に入り吐蕃王国が解体すると、仏教も一時衰退した。しかし、11世紀になって仏教は復興され、再び経典類のチベット語への翻訳がすすめられた。これ以後のものは新訳といわれ、インドの『タントラ』(密教の経典、文献)が多数、訳された。
 これら古訳、新訳を合わせた膨大な翻訳経典は『西蔵(チベット)大蔵経』と呼ばれ、仏教学的にきわめて貴重なものとなっている。
 11世紀なかば、クンチョク・ゲルポが、訳経官(経典をチベット語に翻訳する役人)ドクミから新訳経典を受けて、サキャ派が成立した。この派のパクパは、13世紀なかごろ、元(中国)のフビライ・ハーンを教化し、サキャ派は元の国教となった。また、パクパは1270年、フビライ・ハーンから元の帝師に任ぜられ、チベットの支配を許された。以後14世紀中葉まで、サキャ派はチベットを治めた。
 同じ11世紀なかば、訳経官マルパはインドに留学して、ティローパから「大印の秘法」や「ナーローの六法」を伝授され、カギュー派が起こった。マルパの教えは詩人として有名なミラレパが継承し、ガムポパに伝えられた。ガムポパの弟子からは多くの分派が出た。分派のパクモドゥ派は、一四世紀なかごろから15世紀までチベットを支配した。また、同じ分派のドゥク派は、17世紀にブータンに伝えられ、現在では国教になっている。
 14世紀なかごろ、吐蕃以来の密教に依拠する一派に、ロンチェン・ラブジャムパがでた。彼は、古密教はインド正統の密教からはずれた不純な要素があるという批判にこたえ、新訳密教経典を加えて、その教義を整備した。このころから古密教に基づくこの一派を、ニンマ派とよぶようになった。
 15世紀はじめ、チベットの代表的な仏教学者ツォンカパによって、ゲルク派が開かれた。当時、密教は性的要素や呪術性のため風紀が乱れていたが、彼は戒律の遵守を説き、また『菩提道次第広論』『密宗道次第広論』などを著わして、それまで対立したものと考えられていた顕教と密教を相互補完的に体系化した。このゲルク派は、やがてチベット仏教最大の宗派になった。
 1642年、ゲルク派の長たるダライ・ラマ5世は、チベットの宗教・政治の最高権力者として、法王・国家元首の地位についた。また、ラサ北西にポタラ宮を造営し、チベットを支配した。以後、20世紀なかばまで、さまざまな曲折を経ながらもチベットの政教は代々のダライ・ラマを中心に動いた。
 1959年、中国のチベット侵攻やチベット仏教への弾圧に対し「チベット動乱」が起こった。この事件により、ダライ・ラマ一四世はインドに亡命し、インド北部のダラムサラに亡命政府を樹立した。
 中国の影響下に入ったチベット仏教は強い圧迫を受け、1970年前後の文化大革命で、その荒廃は頂点に達した。しかし、現在、信仰深い一般民衆に支えられて、徐々に復興の道をたどっている。
 ダライ・ラマ14世は、1989年、非暴力主義と世界平和実現への活動により、ノーベル平和賞を授与された。
 現在、チベット仏教が信仰されている国は、チベット・ネパール・ブータン・シッキム・モンゴルなどである。

【転生活仏】
 転生活仏とは、転生ラマ(ラマとは「師」の意)とも呼ばれ、輪廻転生からすでに解脱したとされる仏、菩薩、高僧などが、死後、衆生救済のため、繰り返し生まれてくることをいう。
 転生活仏は、前のラマが死んだ後、幼児のなかから、その生まれた環境、状態や神がかりの僧の言葉などをもとに探し出される。生まれ変わりとされた幼児は、社会的に公認された存在として特別教育をほどこされ、亡くなったラマの特権などを、そのまま受け継ぐ。これは、チベット密教独自のものである。
 この転生活仏の制度は、14世紀にカギュー派の一派、カルマ・カギュー派で最初に行われ、これに刺激されて各派に波及した。
 なかでももっともよく知られているのが、ゲルク派のダライ・ラマである。代々のダライ・ラマは観音菩薩の化身とされ、チベット仏教の最高権威者として、多くの人々に尊崇されている。
 また、同じゲルク派で阿弥陀仏の化身とされるパンチェン・ラマも、人々に尊ばれている。
 これらの転生活仏は、中国政府が認定したものだけでも200人ほど存在しており、チベット全体では1,000人以上いるといわれている。

【教義の概要】
 チベット仏教各派はすべて、密教を根本の教理としている。密教は、5、6世紀ごろインドで起こり、13世紀までここで発展を続けて、多くのタントラが作られた。しかし、チベットにおいては、釈尊真実の口説と信じられている。
 顕教と密教の関係について、顕教は智慧波羅蜜乗であって「因」、密教は金剛波羅蜜乗であって「果」とし、顕教はあくまで密教の入口の立場であると位置づけている。
 タントラの分類は、一般的に、14世紀にでた学匠プトゥンが示した4分説が用いられている。これはタントラを成立年代によって四期に分けて判別したもので、1期を所作タントラ、2期を行タントラ、3期を瑜伽(ゆが)タントラ、4期を無上瑜伽タントラとし、無上瑜伽タントラを最高の教説とする。これを、中国、日本の密教経典に当てはめると、所作タントラは雑密(密教以外の経典に説かれた密教的部分)、行タントラは大日経系諸経、瑜伽タントラは金剛頂経系諸経に当たり、無上瑜伽タントラは、伝来していない。
 新訳密教経典を尊重するサキャ、カギュー、ゲルクの3派では、第4期の無上瑜伽タントラを、父(ふ)タントラ(方便タントラ)、母(も)タントラ(智慧タントラ)、不二タントラの3つの部門に分け、それぞれのなかで、代表的なタントラとして、父タントラでは「秘密集(しゅう)会(え)タントラ」、母タントラでは「呼金剛タントラ」、不二タントラでは「時輪タントラ」を挙げる。しかし、どのタントラを教義の根本に置くかということについては、各派に違いがあって一定しない。
 古訳密教経典によるニンマ派は、仏教全体を九乗に分け、顕教を「共の三乗」とし、所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラを「外の三乗」、無上瑜伽タントラを「内の三乗」とし、内の三乗のなかの「アティヨーガ乗」(ゾクチェン=大究竟)を奥義の教法としている。
 チベット密教では、タントラの数と同様に、如来(釈尊、大日、阿弥陀、薬師など)、祖師、守護尊、菩薩、忿怒尊、羅漢、護法尊など、おびただしい尊格(諸仏、諸尊)があり、それぞれが礼拝の対象になっている。
 僧侶の修行目的は、タントラや尊格をもとに作成されたマンダラを通じて、瑜伽(ヨーガ)による観想(瞑想)などを繰り返し行い、仏の境地(成仏)に至ることである。これには「師」の教導が欠かせないとして、仏法僧の三宝に「師」を加えて、「四宝」として敬っている。
 瑜伽の修行は、密教という性質上、詳細に公表されることはない。しかし、教理の難解さ、煩雑さなどのため、最終の段階まで達する者はまれであるといわれる。また、派や師などによって内容にかなりの違いがあるとされている。
 チベットの一般民衆の信仰心はたいへん厚く、仏寺巡礼を行い、寺院、僧侶などに供養をして来世の幸せや成仏を願う。また、病気の平癒や生活上の利益を求め、僧侶に祈祷や護摩(ジンセク)などを依頼することも多い。


 
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