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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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宗門の現況と指導会

日蓮正宗総本山 第六十六世日達上人
昭和49年7月27日 お言葉

「宗門の現況と指導会」
   於総本山大講堂 大会議室


(前文省略)
 去年一昨年の秋ぐらいから去年を通じ今年の春にかけてこの何と言いますかね。学会が宗門に対する態度と申しますか、色々僧侶に対して批判的であり、また、教義的においても我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。
 それは「世間の友好のため、広宣流布のため」という目標によってそうしておると聞いておりますけれども、「そのままにしておいたんではそれは大問題になりはしないか、ついに、於いて、取り返しのつかないことになりはしないか」という憂慮のために先月の中頃でしたか、私は北条副会長並びに山崎弁護士が来られまして、時に私は申し上げました。
 その時「国際センターを造る」と、「日蓮正宗国際センターを造るにあたって、創価学会と日蓮正宗との真中に、もう一つ上に、日蓮正宗国際センターというものを造る」という趣旨で来られました。
 私ははっきり断りました。
日蓮正宗は日蓮正宗としての一つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない只一つの宗旨である。それを、その上に、一つまた国際センターという、ものが出来るとなれば、正宗としてはその上に一つまた被宗教法人ができる。
 我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。日蓮正宗としての意味が、また、御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。
 その上の宗教法人において、「どうとかこうとか」言われたならば、こっちもその下につくんだから、何ともすることができなくなる。その意味から、はっきり断りました。
 私は、「どこまでも日蓮正宗は大聖人の教義を守って、たとえ小さくても、宜しいから行きます。また今、皆様方のおかげで大きくなっているけれども、もっともっと小さくなっても、どなたか、また大きく手伝いしてくれる人があるかもしれない。だから、私はどこまでも大聖人の仏法を守る」と言って、はっきり、日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターというものを、私は否定といいますか、お断りしたわけでございます。
 それから端を発して、色々のその後の、「最近の一年か二年かにわたる所の、学会の教義の違い、謗法の有り方」ということを私は申し上げました。
 で、ついに、そのために二人は帰って行きました。
 また会計を、「大石寺の会計も調べる。その会計を調べる」という。
 大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告して通っておる。それにもかかわらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのはどうも私は意味がとれない。
 その時に北条さんが言うには、
「もし調べさせなければ手を分かつ、おさらばする」とはっきり言ったのです。
 私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。
「会計を見せなければ、自分から正宗から手を切る」というのである。
 だけれども、その時はその時で落ち着いたけれども、で、「一応見せてあげましょう」と見せまして、会計をこの三月から一月か二月かかって向こうの会計主任と言いますか、何か偉い人が学会の会計主任の方が来て、三・四人、家来を連れてきて調べました。
 だけど、結局調べたけれども金があるわけじゃない。正宗に隠した金があるわけじゃない。同じことなんです。税務署へちゃんと出すだけのことであって、結局それで済んじゃって、二ヶ月か三ヶ月か調べたけれども、そのまま消えちゃった。もう来なくなっちゃった。そんなら「もう要りません」と言うのかと思ったら、「要りません」とも言わないし、それっきりやめちゃったんだから、もっとも、何も見るものはなかったんでしょう。
 というようなことが、出来事が多々ありまして「これはもう、このままじゃ話にもならない。どこまでも、もし学会が来なければもう、それは正本堂を造ってもらってありがたい。その時の日蓮正宗を少なくとも信心する人の集まりによって、その供養によって出来た建物である。だからもし学会が来なくて、こっちが生活が立たないというならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら御開帳してよい」という私は覚悟を決めたわけです。
 その上においても言った。
 そしたらば、今月六日にまた、会長(池田大作)が「会いたい」と言ってきました。会長に直接、互いに会いました。北条さんと会った時には、総監も、教学部長も、この庶務部長も、立ち会っているから、私の言ったことを聞いているはずである。決して私は余分なことは言わないし、嘘も言っていない。この人たちに聞けば解る。
 この六日に会長がきまして、また色々話もしました。
 で、謗法のことに及んだらば、謗法は、私が昭和四十四年、寺族同心会のときに話をした。
「それを土台にしてああいうことを書いた」と。
 私は「其れは違う」と。
 私は、「国土謗法、今は国土謗法なんだから、我々がどんなに、正法を信心して正しく行こうとしても、世間の謗法に、とかく与同罪において其の罪を被るんだ。だからそれを脱れるためには罪障消滅もお願いしていくんだ。また四十四年のあの話を、寺族同心会の話を読んでくだされば解るとおり、私の趣旨は、未だ学生時代、まだ学問をしている時は所化です。所化の時はよその学校にも行く。謗法の学校にも行くんだ。しかしその時は色々と謗法と話し合い、謗法のことも言うかも知れない。
 しかし一度教師になり学校を卒業していよいよ本宗の教義を布教する以上は、絶対謗法してはいけないんだ。
 その意味で言ってるんだ。
 それは日有上人の百二十一箇条「化儀抄」においてはっきり出ているじゃないですか」と言ったんです。
 それで黙っちゃいましたけれども、とにかく謗法があるということは困るんだ。正宗としてはそういうことは絶対いけないんだ」
ということを話しました。
 また色々他の細かいことも話しました。
 で、会長も了解せられて、このあいだ、八王子の法忍寺、今度できた学会の学校、創価大学のもとにできたお寺の時にも、「ぜひ会いたい」と言うから部屋で二人で会いました。
 その時も「もし自分らの教義の間違いがあるなら、どんどん指摘してくれ、自分達も一生懸命、今までの考えをやめて、正しい教義をして、やりますから」と「お互いに手を握り合ってやりましょう」と、握手しました。そして、ともにやっていこうと思っております。
「今後とも、今まで昔の通り、お互いに、学会も謗法しない。謗法を勧めもしない。そして正宗を守ってくれる」という話の上で、私は一生懸命やりましょうと。
 また、今までも、末輩の人が、まあ青年部もあるでしょう。あるいはB長とかBなんとか長というのがありますが、それらの人が、皆各末寺の僧侶を馬鹿にしている。「ボーズ」呼ばわりである。「ボーズは修行が足りない。坊主は修行がたりない。坊主は掃除もしない。」これじゃぁ話にもならんということは前にも、六月にも言った。
 また最近でしょう、あの九州で福島とかいう人が、「坊主は商売人だからお題目が長い」とか何とかいった。其れはどんどん信者がお寺に来て、そういうんだからすぐ解るんだ。少なくとの副会長なる立派な人が「坊主は商売だから」とか。
 僧侶がどこに商売があるのか。僧侶という商売はないはずだ。出家なんだから。そういう様なことをどんどん平気で言っておるから私もたまらなくて、結局、先日から言い出して学会にくってかかったわけです。
 また、あるいは論文にも皆の寺族同心会の時にも言うし、また、法華講の会合の時にも言った。みんなそうなんです。
 で、またとにかく一応、会長との話し合いがついて、私の方も、「一生懸命各寺院の住職も真面目にやらせよう。間違ったことがあったらば、どんどん注意してやってください。そして、こっちも一生懸命やらせますから」という話しあいで握手しました。
 それで「共にやっていこう」となっているんです。しかし、まだまだ、そこまで徹底しておりません。
 この間、九州へ行けば、あるところでは写真展がある。聖教の写真展がある同じ日です。写真展があるからそこへ皆来ない。
「なに、あのあんな法要なんか本物じゃないからこっちの方が大事なんだ」と言って、大勢、八百人だか八百五十人だか知らないけれども連れて行った、というような。その連れて行くのはいいけれどもこっちが来て記念法要やるのに、「法要より大事だ」と、そういうことをまだ平気で言ってるんだから、まだまだ、これでは徹底していないと思います。
 あるいは、ある寺では謗法をしてはいけない」と先月から言っておる。御講の時に「謗法はいけないんだ」と住職が言っておる。先月も今月も言ったそうです。そしたら、前にちゃんと総代というのが座っているんだ。いつも座っているんだ。
 その住職が部屋に入ってしまった後、そっくり立って、
「謗法がいけないなんてとんでもないことだ。友好の輪を広げるんだから神社行ってどんどん掃除をしてやんなさい」と言う。まったくびっくりしちゃったですね。
「まあ来月は、もしまたそんなことを言ったら、お前は本人に言いなさい。日蓮正宗の教義に反することは止めなさいと言いなさい」。
そして其の人の言うには、どうかと言えば「ここの住職が威張ったって、俺の胸三寸にあるんだ」と言う。「辞めさせる」のが。まあそんな根性で、今、だから良かったんですね。これは、今までわしがそういう風にいわなかったならばどうなったろう。もっとひどかったろう。
 今こういう風になって、地方へ僧俗一致して、流れて行っている時にもかかわらですね、住職の任免が「自分の胸一つにある」と言うんだから。「三寸にある」と。それが総代で。
 其れは去年、おととし当たりから総代会議というものを東京でやっています。学会で。その時には、皆、君たちは知らないかもしれないが、君等らの悪口は、皆そう言っているんだ。皆、一々悪口を報告さして、やっている。委しく言ったら大変になる。
 それだから他の総代もまるで「自分たちが何とかすれば、住職なんかどうにでもなるんだ」という頭になっちゃった。大変な間違いですよ。総代は住職の委任によってやる。住職が、「この人を総代にして下さい」と言って出すから総代になる。それを逆に今度は、総代の方が任免権を持っている、というようなとんでもないことになりますね。
 そういうふうに、段々変になっていった。今、この時においてに、「憎まれても私が言わなければ大変だ」と思ったから私は言ったんです。
 其の為には、あるいは、ある程度の動揺はあるかもしれません。
 わしは覚悟したわけです。その時。
 実際、皆様の五月の寺族同心会にて、「一人でもお山を守りたい、もうどんどん手を切ってもいいから、百姓してもいいからやろう」と皆お山の連中にもそう言っているんです。「結局百姓して食わなきゃダメだぞ」と。
 それまで決心して、私は言ったんですから、どうか皆さんもしっかりしてですね、自分のお寺の収入というものにあぐらをかかないで、一生懸命に教義を大事にして行くと。
 また、信者には威張らないで、自分から信者を大事にしていくという精神を忘れてはいけない。

 あの昔、「行水」というのがある。「行水」。夏、皆、たらいにお湯を沸かして、それを裸でお湯をかぶる。あれは「行水」という。あれは「行の水」と言う。
 何故「行水」と言うのか。
 山寺において地方から信者が来る。参詣人が来る。昔は歩いて来る。そして先ず、お寺に来たから、「お前は暑いだろう。砂ぼこりだろう。さあここにお湯を沸かしたから入りなさい。」と言って、入れてやったのが「行水」である。たらいにお湯を汲んで入れた。「行の水」修行の為のお湯なんだ。
 それ程にして、僧侶は心を大事にする。信徒を大事にする。
 しかし、法は曲げない。もし自分が其の正しい法に背くならば、どんどん謗法として止めなければいけない。それは大事なことなんです。まだまだ、ここまでは徹底していないらしいんです。

 この間、先月の「大白蓮華」にあった、
「謗法を承知の上でしてもいい」というようなことを書いてあった。あれも指摘したんです。私は。
「これじゃしょうがないじゃないか」。
 そしたら、
「其れに対する、必ず、間違ったことをだす。それにまぁ明らかにする」と。
「そういう謗法は明らかにする」と言われまして「今月の八月号には必ず出す」と。八月号を見たらば、何だかやっぱり相変わらず、
「自分で謗法してしていれば罪は自分で受けるんだからいい」と言っている。
 おかしな話ですね。「謗法」なんていうのはそんなものではないですよ。「自分が謗法したから自分だけが其の罪を受ける」と言うんじゃない。
 その例に、「願兼於業」と言う、大聖人様の「開目抄」に引いている「願兼於業」という言葉を引いているんです。
「願兼於業」は、大聖人様が正法布教の為に、あらゆる災難を受ける。その災難を受けることは喜ばしいんだ。
 例えばだ、例えば未断惑の、まだ悟りを開かないところの菩薩が、自分の父が地獄に落ちているのを救う為に、作りたくない罪を作って地獄に堕ちて父を救う」と言う、と。
 例えばこういうこともあるぞ、と。大聖人が未断惑だったら大変だ。未断惑の菩薩だったら大変だ。大聖人は衆生済度の為に法華経流布の為に広宣流布のために、あらゆる迫害を受けている。其の迫害を受けている姿がちょうど、未断惑の菩薩が地獄に堕ちて苦しんでいるのと同じ事なんだ。例えばその例を引いたに過ぎない。それを持ってきた。
「こういうこともある。「願兼於業」と言うことがあるから、自分は謗法していいんだ。進んで謗法していいんだ。責任は自分にある。」
 とんでもないことですね。
「若しこの経を信ぜずして毀謗せば乃至その人阿鼻獄に入らん」と。
 それは堕ちるのはいいさ、謗法した人が。謗法ということは正法の人の、正しい人の成仏の種を断ずることである。仏種を断ずることになる。自分だけ謗法していいんじゃない。謗法を人に勧め、人がそれを見れば、人が真似をすれば、その人の仏種をみんな断ずるから謗法は一番いけない。
 殺生よりも、五逆罪よりも、謗法はもっといけないんだ。これが本宗の建前なんです。
 それを指摘してやれば、何だかわけがわからぬ。何だか。
 後で書いたものを皆にあげますけれども、持っていないでしょうから。そういう風な、まだまだ、十分に我々の意志が通っていません。
 どうかそのつもりで、みんな自分のお寺を守って、正しく守ってください。謗法無く、正しい法門を流布して、そして、お寺を守ってください。其の為に、お参りする人が減っても仕方がない。減っても喜び、正しい法を弘める為には、喜んでやってもらいたい。
 之は是非、皆様にお願いする次第でございます。どうか今後とも法門を正しく守り正しい勉強によって行ってください。皆、今ここにおられる方は、中堅以上の方、皆若い人、宗門を必ず背負っていく方々ですから、あなたがたにそういう心が無ければ、ただ、大きいものに巻かれて、ただ生活しておればいいというような考えでは、宗門は必ず衰微してしまいます。より以上衰微してしまう。
 どうか宗門の為に、皆固く手を握って法門を守り、大聖人の仏法を広宣流布して行っていただきたいことを願いします。どうぞよろしくお願いします。

 
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