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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

登山の意義

【総本山への参詣】
 日蓮正宗では、総本山大石寺に参詣することを「登山」といいます。 総本山大石寺は、一切衆生の成仏の根源である本門戒壇の大御本尊と,日蓮大聖人以来の唯授一人の血脈を所持する御法主上人まします一閻浮提第一の靈場です。
 登山の本義は、大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊を内拝させていただき、御法主上人の大導師のもと、正法興隆による人類の恒久平和・広宣流布を祈り、さらに自身の無始以来の謗法罪障消滅と現当二世にわたる大願成就を願うことにあります。
 この大御本尊内拝を「御開扉」といい、本宗信仰者にかぎり、御法主上人の許可を得て受けることができます。
 大聖人の御在世当時の信徒は、日蓮大聖人を渇仰し、お目通りできる喜びを胸に、交通不便のなかを歩み、困難を押して登山されました。鎌倉在住の日妙尼は、女性の身でありながら道中の危険も顧みず、佐渡に配流されていた大聖人を慕ってお目通りを願い、また佐渡在住の阿仏房は、九十歳という老体にもかかわらず、身延の大聖人のもとへ数度にわたって参詣しています。長い道中を経てお目通りが叶った信徒たちは、大聖人に少しでも御奉公申し上げたいとの一念から、薪を切ったり、菜を摘んだり、沢へ下って水を汲むなど、真心からのお給仕に励まされたと伝えらています。
 これらはまさに、法華経に説かれる「心懐恋慕・渇仰於仏(心に恋慕を抱き、仏を渇仰して)との求道心からくる信心の行体であり、ここに登山の基本精神があるのです。
 大聖人は、登山の功徳について、
「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」(四条金吾殿御返事 1502頁)
と仰せられ、その信心を励まされています。

【本門戒壇の大御本尊】
 本門戒壇の大御本尊は弘安2年10月12日に日蓮大聖人が顕された出世の本懐となる御本尊で御本尊の中でも究境中の究竟の御本尊で、日蓮正宗では、身命をささげて帰依する御本尊のことです。
 経王御前御書(685頁)に
「日蓮の魂を墨で染め流して認めた御本尊である。信じなさい」(取意)と仰せのように、日蓮大聖人の魂そのものがおわします大御本尊です。すなわち生身の日蓮大聖人なのです。
 そして、時の御法主上人猊下が本門戒壇の大御本尊の御内証を書写された御本尊が、それぞれの寺院や家庭に御安置されているのです。

【本宗信仰者に限る御開扉】
 御法主上人猊下から、登山参詣した信徒に対して、大御本尊を直々に拝することが許されます。これを「内拝(ないはい)」といい、このとき大御本尊の御厨子が開かれることから「御開扉(ごかいひ)」といいます。
 広宣流布が達成されるまでの間は、「内秘」といって一般には非公開となっています。
 広宣流布が実現したときに初めて誰でも自由に参詣できるのです。

【御開扉の大事】
 御開扉では、本門戒壇の大御本尊にお目通りし、私たちの罪障消滅と 所願満足や息災延命を祈ります。その功徳について次のように仰せです。
 南条殿御返事(1569頁) 「この御本尊にお目通りすれば、無始の罪障はたちどころに消滅して三業の悪が転じて三徳となる」 (取意)
 四條金吾殿御返事(1502頁)
「毎年の度々の御参詣により無始の罪障は必ず一生の内に消滅する」(取意)
 観心本尊抄文段(日寛上人・文段集443頁)
「この大御本尊の功徳は、無量無辺であり、広大深遠の妙法の功徳がある。したがって、少しでもこの大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、祈りが叶い、罪が滅し、福が来て、道理にかなっている」(取意)
 本尊供養御書(1054頁)
「須弥山に近づく鳥は金色となる」
 このように、総本山大石寺に参詣し本門戒壇の大御本尊にお目通りすることによって、私たちは、自らの罪障を消滅し、諸々の願いを成就して成仏の大道を歩むことができるのです。

【第26世日寛上人】
 『寿量品談義』に
「祖師より興師へ御付属亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付属も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、廿四代金口の相承と申して一器の水を一器に瀉(うつ)すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。(中略)既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ」(富要10巻131頁)
と、信心があるならば、登山して大御本尊様にお目通りせよと仰せられています。

【御当代日如上人猊下】
 末法の荒凡夫は、すべからく本門戒壇の大御本尊を帰命依止の御本尊と拝し奉り、無疑曰信の信心に住して自行化他の行業に励むことによって、十悪、五逆、誹謗正法等の罪障を消滅し、煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即寂光と開き、六根清浄の果報を得て、健全にして慈悲の心を持った人格により、安定した生活を送ることができるのであります。(平成18年6月度 広布唱題会の砌)

【登山に関する逸話】
阿 仏 房
 90歳の老齢で危険な道中を20日間以上も歩んで参詣した阿仏房(あぶつぼう)とその阿仏房をさし遣わされた妻千日尼(せんにちあま)の信心を『千日尼御前御返事』(御書1253・1290頁)に
「文永11年に身延山に移り住んでから5年の歳月が過ぎましたが、その間に3度も夫(阿仏房)を遣わされたことは大地よりも厚く大海よりも深い志です。この志は、必ず法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏が知っているでしょう」(取意)と賞賛されています。

 日 妙 聖 人
 幼い娘の乙御前(おとごぜん)を連れて佐渡や身延山まで大聖人を求めて参詣されたことが『乙御前御消息』(御書896頁)に
「佐渡まではるばる来られたことは、現実とは思えないほど不思議なことでした。そのうえ、このたびの身延山への訪れは言葉になりません。必ず諸天善神や十羅刹女が守るでしょう」(取意)と絶賛されています。

 阿 部 重 吉
 総本山塔中観行坊の能勢順道師が、編纂された『諸記録』に、盛岡の感恩寺信徒であった阿部重吉氏の、安政2年の登山道中日記が収録されている。それには、「御大坊様江罷上がり御宝蔵外廻りくさ取りいたし、それより奥にわくさ取、御きゃく殿の前廻りはきそうじ」(同書5-252) とある。往昔の人々は、年に数回の登山参詣など、なかなかできなかった。そのため、ひとたび登山参詣すると、数日、あるいは十数日逗留滞在したのである。そして、阿部重吉氏のように、総本山の清掃、給仕等の奉仕を、進んで行なったのである。

 金沢信徒の抜参り
  加賀前田藩の金沢信徒も、そうした圧政の中で、大聖人の仏法を学び、弘め、求道心を燃やしてきたのである。しかし、地元には寺院がなかったために、総本山への道中手形を出してもらえず、総本山への登山参詣は、全くおぼつかない状況であった。
 しかし、志のある者たちは結束し、禁を犯して登山を決行したのである。喉の渇きは露を啜(すす)って癒(いや)し、夜は枯木を枕に枯れ葉に埋もれ、幾山河を越えて、総本山を目指したのである。大石寺の三門が見えたとき、皆、肩を抱き合い、涙を流して喜んだとのことである。
 あるいは、前田家の参勤交代の途中、東海道の吉原宿に宿泊の折に、「抜け詣り」と称し、皆の寝静まった頃を見計らって、夜陰に紛れて宿を抜け出し、大石寺へ向かって走り、早朝まで、御宝蔵の前で唱題し、同輩の起き出す前には、吉原宿に帰ったと伝えられている。

 覚林日如師
 陸奥の仙台法難によって、流島されていた覚林日如師は、仙台の信徒に宛てて、
「一、未登山輩は老少によらず随分取立候て年々に御登山の願望成就はたさせ申すべき事登山の面々より其方の功徳広大に候」(富要9-334)
「一、御本山え差上げ候風波の渡り幾日がかりもさ候へば彼此物入り島へ渡り候金銭を以て少しも余慶に役立たす候事、何人登山とても島へは渡海は無用に候只書通を以て申し入らるべく候」(富要9-334)
と、教えているのである。
 この書状の意味について、日亨上人は、
「登山せざる者を勧めて登山せしめよ、其功徳は登山者に勝る、島に渡りて予を見舞ふ金銭を以て御登山の費用に補へ等の訓辞あり誠に難有き志かな」(富要9-334)
と、覚林日如師の登山についての指導を讃えられている。

 「米一升の請書」
 東京妙光寺檀家の話に、「米一升の請書」というのがある。これは、女の身として子供をおぶり、大晦日に箱根の関所を越えて、一升の米を、正月の元旦、総本山へ御供養したというものである。第52世日霑上人は、この奇特な婦人に「米一升の請書」をお認(したた)めになられ、その信心にお応えになられたとのことである。


 
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