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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

日蓮大聖人御一代

刊行の辞

日興遺誡置文に
 「夫れ以(おもんみ)れば末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照らし、久遠寿量の妙風 は伽耶始成の権門を吹き払う。於戯(ああ)仏法に値うこと希にして、喩えを曇華の蕚( はなぶさ)に仮り類いを浮木に比せん、尚お以って足らざるものか。爰に我等宿縁深厚 なるに依って、幸いに此の経に遇い奉ることを得たり」と、過去世の宿縁深厚なる故か、我々が求法濁悪のこの世に生を享けながら、宗祖日 蓮大聖人の仏法の光明に浴し得たことは、何事にも替えがたき福運の賜であります。
 宗祖大聖人が末法弘通の恵日たる本門戒壇の大御本尊を御健立遊ばされ、極悪謗 法の闇を照らされてより幾星霜、御本仏日蓮大聖人の御威光と歴代御法主の御威徳に 依って、わが宗門は大願たる広宣流布も眼前に迫りくるごとき空前の大発展をなし、時 あたかも宗祖大聖人の第七百御遠忌の年を迎え、この年にめぐり逢いし我々は誠に宿 縁深厚なるものと感激に堪えないところであります。
 今、この第七百御遠忌を迎えて、不自惜身命広宣流布の大願に向ってなお一層の随 力弘通の脚奉公申し上げるべきはもとより、ここに御遠忌を記念して「日蓮大聖人御一 代絵図」の刊行を発願し、以て御報恩の一端に備え奉りたく存ずる次第であります。
 さて、この「日蓮大聖人御一代絵図」を刊行するに至りますまでには、種々紆余曲折を 経ております。先ずその原本ともいうべき「日蓮上人」と題する大聖人の御伝記が、本宗 信徒熊田葦城氏によって「報知新聞」誌上に連載開始されましたのは、明治四十四年 五月のことであります。当時の読者に大変好評を博したこの御伝記は、 日蓮正宗の教 義に順じて執筆されているところから、本宗の篤信家東京三田の紙問屋藤波商店の主 人藤波文蔵氏が大いなる感銘を受け、これを原本として日蓮大聖人御一代の御振舞を 絵に画き、それを通して人聖人の御一代を大衆に知らしめ、本宗信仰の布教に活用せ しめるべく、「大聖人御一代絵図」の刊行を発願されたのであります。かくして城南画会 の名画家、田南岳璋、荒木寛友、山本曻雲、河合英忠、寺田悟鳳、松本天章、椎名僲 山、吉田一明、島村文春、山口撓斎、小野隆弘の十一名を嘱託画家として招き画かし めたのでありますが、それは現在七十二幅の掛軸として蔵されております。そのうち五 十五枚の絵は、大正四年十一月七日出版の由井一乗著「日蓮大聖人」の中で写真版 として載せられておりますが、まだ一代絵図として刊行されたわけではありません。
 そこで、藤波文蔵氏は弟の金次郎氏と協力して本格的に御一代絵図の発刊に努め、 先ず前の熊田葦城著「日蓮上人」の要点を摘してそれを解説文となし、絵は主に根本桃 湖画師、解説文の浄書は山本成峯氏にそれぞれ依頼し完成したのが「日蓮大聖人御 一代絵図」であります。この御一代絵図は大正九年七月一日より二十日迄、三田の大通りに灯籠を作りそこにこの絵を掲げて一般公開されたのであります。丁度この年は日蓮大聖人が鎌倉幕府に立正安国論を献上された文応元年より数えて六百六十年庚申 年十二回目の年に当り、これを記念してのものでしたが、その盛況たるや大変なもので 折伏下種の布教に大いに効果を上げたといわれております。また地方の演説会や座談 会にも出張して、そこにこの御一代絵図が掲げられ解説が加えられると、会場の雰囲気 も一層盛り上がり大変な反響を呼んだと伝えられております。その後関東大震災、第二次世界大戦の戦火にも鳥有に帰することもなく藤波家の蔵の中に厳護されて今日に至っております。それは誠に奇跡的ともいうべきでありましょう。
 さて、私が初めてこの「日蓮人聖人御一代絵図」を拝見する機会に恵まれましたのは、昭和四十五年三月、松島晃靖氏の紹介によって藤波良三氏に会い藤波家の諸文書を調査した折のことでした。それを拝借し、早速総本山第六十六世日達上人の御拝謁を賜りましたところ、「実に良く画かれているので、もし出来たら総本山に納めてぃただけないものか、そして納めてもらえるなら大聖人様の七百遠忌の記念として刊行したい」との仰せでありました。そこでその意を体して藤波氏にお話し申し上げたのでありますが、藤波氏からは、藤波家の家宝として永く保存していきたい旨の御返事があり、その刊行は実現できなかったのであります。
 それをお聞きになった日達上人は「それならば誰か他の絵師に頼んで画いてもらおう」と仰せられ、種々お考えの上、一之坊住職宮沢慈悳御尊師に御依頼されたのであります。宮沢師はよく日達上人の御意をお汲みになり一生涯の仕事としてこの大作に打ち込まれ、昭和五十三年の暮には六十四枚の下絵を完成させ、それを日達上人に御覧に入れ御教示をお願いしたのであります。日達上人は一枚一枚丁寧に御覧になり、鉛筆で構図、色彩等について種々御指示をされて数日後お返えしになられたのでありました。ところが宮沢師はこの御教示に感激し勇躍して本格的に取り掛かろうとされた矢先の昭和五十四年三月十五日急逝され、この計画も志なかばにして完成をみることが出来ず、誠に残念至極のことでありました。現在この下絵は奥様の宮沢こう様のもとに師の形見として厳護されております。
 以上のような種々の事情によって、日達上人の御意志による「日蓮大聖人御一代絵図」の刊行はなかなか実現されなかったのでありますが、加えて昭和五十四年七月二十二日には、日達上人の御遷化も相俟って、この計画も遂に断念せざるを得ないかと思われたのであります。ところが、昨年来日達上人の書籍等を整理しておりましたところ、その中から本山妙蓮寺住職吉田日勇御尊能師が嘗て総本山塔中東之坊住職在任中に日達上人に納められた義父大村寿道御尊師(画号敬華)の筆による「日蓮大聖人御一代絵図」が出てまいりました。しかし残念なことにこの絵も二十六枚中九枚が未完成であり、また御一代の御振舞が整足されておらず、これもまた刊行するまでには至らなかったのであります。
 そこで嘗て一度は断念いたしました藤波氏所蔵の「日蓮大聖人御一代絵図」を思い出し早速藤波氏と面談の上、再度懇請いたしましたところ、快く承諾され更に刊行に関する一切も一任させて下さいましたので、ここに意を決してその刊行に踏みきった次第であります。
 ともあれ、「日蓮大聖人御一代絵図」の刊行を発願せし所以は、前にも述べたごとく、宗祖大聖人第七百御遠忌の御報恩に備え奉るためであり、更にはまたこれによって日達上人の御意図の万分の一にも添え奉ることが出来れば、これに過ぎる感激はありません。
 最後に、この「日蓮大聖人御一代絵図」が御高覧賜わりました善男善女に、末法の御本仏日蓮大聖人御一代の真実の御振舞を知らしめ、また信心を倍増せしめると共に、折伏弘教のお役に立てていただけることを念願いたします。
 以上発刊に至るまでの経過と、その意図するところを述べて刊行の辞とさせていただきます。
       昭和五十六年十月一日
                            大宣精舎 菅野 慈雲

この「刊行の辞」にあるとおり、この「日蓮大聖人御一代絵図」は藤波本といわれるもので、説明文は大正時代のもので、言い回しや文字について、 現時点において合致しない部分があります。そこで、編集者として、今回、できるだけ原本に配慮しつつ読みやすい表現を用いた説明文を併記しました。

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